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2022年10月 8日 (土)

甲斐駒ケ岳閉山祭

10月1日は、雲ひとつない青空でした。
中央道笹子トンネルを抜けて、甲府盆地に下りていく頃、南アルプスが一気に見渡せて、その右端に甲斐駒ヶ岳。
閉山祭の日にふさわしいお天気でした。
開山祭が7月1日なので、たった3ヶ月。けれど二年目のその間には、本当にいろんなことがありました。
時代やときの流れを強く味わったり、変容のときが続いたり。

今橋宮司は「えにし」という言葉を教えてくださったけれど、人生はすべて人と人とのつながりなんだと、改めて思いました。


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2022年6月19日 (日)

甲斐駒ヶ岳登拝@『山と溪谷』7月号

『山と溪谷』7月号(6/15発売)に、甲斐駒ヶ岳登拝の記事を書きました。

北杜市白州町横手にある駒ヶ嶽神社から黒戸尾根を登り、本社のある御山頂(東峰)を経て、登山者が山頂と呼ぶ西峰、さらには摩利支天への道。
山岳信仰は、登るという行為で信仰を重ねるわけですが、今回の記事では、甲斐駒ヶ岳の登拝はどんな様子なのか、どうやって続いてきたのか、ほんの少しですが書きました。

かつて七丈小屋の手伝いで幾度となく往復した黒戸尾根に、昨年夏の登拝に同行する機会を得て登ってみると、それはまったく初めて登る山のようでした。その新鮮さに、ともかく驚きました。心が救われるような出来事でした。
なにをおいても、こんな貴重な経験に誘い出してくれた友人の堀内美津子さんに感謝です。
七丈小屋が現在の体制になった当初から、勤務している方です。
堀内さんは私に、「山小屋も登山者も時代と共に変わっていく。けれど唯一変わらないのが登拝。それを見てほしい」と言いました。その彼女、登拝でびっくりする潔い姿を見せたのですが、それは、次の機会の記事に書きます。

夏の次は、秋の登拝をし、毎月1日の月次祭と鳴動護摩、閉山祭、大祓、正月の神事と武芸奉納、筒粥神事、例大祭に参列。
先日は、五合目の石碑の整理作業をしました(2019年の台風19号で流出したものもあり、とりもなおさず置いてあったため、あるものを確認し、並べ直し整理する作業)。
たった1年、駒ヶ嶽神社に関わっただけでは、とても書けない内容。最初は自分史上最悪の原稿になり、編集担当の辻拓朗さんのおかげで、そこからなんとか1ミリ程度這い上がっただけです。

けれど、写真が素晴らしいので、ぜひご覧ください。
秋の登拝に、国際山岳ガイドであり写真家の黒田誠さんに同行してもらいました。
今日、メッセージの履歴をさかのぼったら、夏の登拝の直後(しかも、自分の誕生日!)に、黒田さんに依頼し、まずは日程だけ空けてもらいました。
宮司から明確な承諾を得る前、媒体は全く決まっていなかったのだから、我ながらいい度胸をしています。けれど、撮ってもらうとしたら黒田さん以外考えられなかったのです。
いざご一緒したら、私が知っていたよりも、想像していたよりもずっとずっと、黒戸尾根と縁の深い方でした。

1年間ご一緒いただいた、今橋武宮司、小百合さん、堀内さん、大野正一さん、津島隆雄さん、伊与久大吾さん、敦子さん、真澄さん、三好妙心さん、林多映子さん、春日玄さん、それとお世話になった七丈小屋に、特別な感謝の気持ちを表したいと思います。

そして、開山から始まり200余年、これまで登拝を支えてきた遠藤先達をはじめとした多くの方々があってこその、いまであることを実感しています。
トビラの写真は、摩利支天に向かう登拝の一行が写っています。赤石沢から湧き上がる雲が、稜線で止まり、太陽が摩利支天を照らしていました。
さて、今年の夏も始まります。
その前に、横手道の草刈りや整備に行ってきます。

**********
痛恨の誤字があります。
小見出しの「横尾道」は「横手道」です。
お詫びして、訂正いたします。
blogの写真は私が撮ったもの。
登拝メンバーの皆さん、撮影中の黒田さんです。

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2021年11月14日 (日)

ルクラフライトを心穏やかにやり過ごすコツ

キャンセルの多い山岳路線・ルクラフライトを心穏やかにやり過ごすコツは、焦らないこと。どーにでもなれって思うコト。そのためには、暇つぶしの本も必要だし、昼寝もよし。けれど、情報収集やコネづくり、ネゴも重要です。

 

帰路は1日予備日あり、それもダメだったら3日目のファーストフライトをねらって、カトマンズに到着次第、デポ品をともかくそのまま空港に持ってきてもらい、国際線に乗り継ぐというハットトリックしかない状態だった。あるいは、どこかのヘリを拝み倒すか。
ギリギリの予定は立てるな、これもコツか。

 

朝はカトマンズ盆地霧のため、マウンテンフライトがオールキャンセルという絶望的なスタートだった。
ライ族と結婚したという日本人女性がやっているお土産物屋でおしゃべりをしていると、10時頃、タラの1便が飛んだというニュースを、空港の整備士が持ってきてくれた。地元密着ポイントにいるといい情報もすぐに入るものだ。
しかしその後は鳴かず飛ばず。スタバ風カフェでひたすら読書。
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15時頃になって、なんとなく知った顔のダイがふたり、「ディディ、フライトだ」とやってきた。
誰だかわからなかったけれど、小さな村だからオオゴトにはなるまいと思って店を出た。

 

宿の主人であるパサンは、空港に通じていて、私達のエージェントからもフライトのケアを依頼されている信頼できる方だ。
そのパサンが空港にいて、シミティックの搭乗券を出してきた。もちろん手書き。
私が持っていたタラの3便は飛ばないだろうという彼の予想によるもの。
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結果的には、シミティックもキャンセルになり、次にパサンが出したゴマに乗ることになった。シミテックをぐちゃぐちゃに丸めてポケットにしまいこみ、ゴマのチケットを手書きしたのだ。
KTMからカーゴ便でやってきたゴマが帰路、乗客を乗せて帰ると言いだしたらしい。
まさかカーゴ便にひとを載せるとはだれも思ってもおらず、小さな空港は混乱状態だった。
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しかし、これで乗れると思ったところ、最後にもうひと山。
そのゴマがオーバーブッキングをしており、控えめにいちばん後ろに並んだ私が乗れなそうになったのだ。
そこをまた、パサンが交渉。早口のネパール語が飛び交い、もはや彼が何を言っているのか聞き取れなくなったが、30キロ近い登山道具も一緒に載せられることになった。
最後に、「うちに泊まってくれた、大事なお客様だからね」と言ってくれたが、ゆうべのうちにパサンといろいろおしゃべりをしておいてよかった。

 

ルクラのみんなに「ラッキーガール」と叫ばれながら、ラストフライトの最後の1席に乗って、無事予定の日のうちに帰ってきた。
20年以上の付き合いになるアヌーの息子がゴマに就職し、パイロットのトレーニングを始めたと言っていたから、私がゴマで帰るのも最初から決まっていた縁だったのかもしれない。
17時過ぎに飛び立ち、有視界飛行ギリギリ。夕陽を浴びたヒマラヤの山々が本当に神々しかった。
山のなかで別れてきた花ちゃんとすずぴーのことを思い出した。時間がギリギリだったので仕方ないとしても、自分がちっとも山に登れず、スパンティークの出番もないまま帰ってきたことも、実はものすごく心の残りだった。
ふたりが、峠の途次で座り込んで書いただろう手紙は、無事シェルパの手で私のところに届けられ、機内で繰り返し読んだ。
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空港ターミナルに到着したときには、日も暮れていた。
ホテルに着くと偶然同じに日BCから戻ってきたヒロタカさんとタケさんが、「九回裏起死回生だね」と言って待っていてくれて、またもや……二人が大好きなサムギョプサルへ。
KTMはティハール(お祭り)の名残りがあり、街の灯りが何となく綺麗だった。

昨日に続いて、facebookの思い出機能に出てきたものを再掲。旅がしたいな。

2021年10月11日 (月)

執筆を続けて

ライターの先輩である寺倉力さんにインタビューを受けるのは、2度目だった。
前回は、『PEAKS』に寺倉さんが連載している「Because it is there」。

その依頼を、Messengerで受けたのは、友人達が働く七丈小屋を手伝っているときだった。
朝のひと仕事を終えて、厨房の片隅でお茶を飲んでいるとき、依頼を読み思わず、「既読スルーしたいわ」と呟いた。
「何かを成し遂げたでもない、中途半端な人間をインタビューしても、どうにもならないよね……」と言うと、隣でヅメさんが、「インタビューしたいかどうかは、相手の問題。そういうのは受けて、ただ聞かれたことを答えればいいんだよ」と。

なるほど、確かにそういうものかもしれない。
自分のことはさておき、私とて、何かを成し遂げた人をインタビューしたいわけではない。

それから2年あまり。今度は、『PEAKS』の妹分である『ランドネ』の連載「だから、私は山へ行く」だった。
初めてご一緒する編集者からの依頼であり、寺倉さんがライティングを担当することになった。
夏の頃。掲載誌はとうに書店から姿を消していますが、webで読むことができます。
コチラ→

インタビューの数日後、この仕事を続けてきてよかったと思ったことがあった。
13年前の冬、富士山で亡くなったカメラマンの宇佐美栄一さんの妻である直子さんと、お話する機会がもてた。

私は、宇佐美さんのことを今でも時どき思い出す。
春の北穂高岳、厳冬の赤岳、最後の仕事になった葉山の里山の帰りによったイチゴ畑、打ち合わせのために初めて会った新宿の喫茶店。正月の八ヶ岳から下山して食べた焼肉。
そうだ、そのあとに中央線に電気系統のトラブルが発生し、私たちは長時間、特急あずさに閉じ込められたんだった。
暖房が効かなくなり、湿った山の防寒着を着こんだ。おにぎりが配られたけれど腹は減り、あまった行動食をボリボリ食べていた。
宇佐美さんは、カメラマン根性を出し、彼方此方歩き回って、トラブルの模様を写真に撮っていた。当時は、フィルムの時代。編集部から渡されたロールに余りがあったのか、自分の手持ちがあったのかわからないが、いったい何枚撮ったのだろう。

現場で、意見が食い違い言い争いになったこともあった。
けれど、いま考えれば、ぜんぶ宇佐美さんが正しかった。

遭難を聞き、祭壇に会いに行ったとき、まさか自分が泣き崩れると思っていなかった。
隣にいたある登山家に、「柏さんは、うさちゃんといちばん親しかったからね」と言われ、そうかなあ?とも思った。
同世代であるけれど、10代後半から山やクライミングの写真を撮り続けてきた宇佐美さんは、先輩のように思っていたし、彼には仲間が大勢いた。

直子さんは、宇佐美さんが私のことをどんなふうに話していたか、教えてくださった。
まったく意外で、泣けてきた。
もっと私は、がんばれなかったのか、もっとできたんじゃないかとも思った。
そんな折、神長幹雄さんが書いた『未完の巡礼』に、宇佐美さんが撮った、登山家・小西政継さんのポートレートが載っていて、目に留まった。
晩年の小西さんが、哀しいほどせつない表情をして写っていた。計算するに、宇佐美さんが30そこそこで撮ったもの。その若さで、こんな表情をとらえるなんて、と驚いた。
もっと、宇佐美さんと仕事がしたかったよ。

最近の仕事は、けっこうしんどく、孤独な時間が続くけれど、宇佐美さんに愛想を尽かされないように踏ん張らないと。

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2021年1月17日 (日)

深夜の八百屋さん

深夜の八百屋さん。
恵比寿は優しい街だ。

♪会えない時間が愛を育てない ことは、よくよく知っているけれど。
例外があるとしたら、一方が認知症の場合かもしれない。
と、夜道を歩きながら考えた。
認知症をわずらった人というのは、独特の時間的観念をもっているのではないか、と時々思う。

会えずに終わってしまうのかもしれないと、思うときもあるが、それはそれで受け入れることができそう。
ものすごい悲しみとともに。

クラスタにさせないよう、尽力するスタッフの方々に心からの感謝と敬意を。

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2020年11月29日 (日)

蕎麦の収穫

ちょうど一ヶ月前のこと。
北杜市に住む友人の蕎麦畑の収穫を、手伝いに行った。
自分の畑を持たなくなって5年ほどになり、こんな風に土いじりの声をかけてくれるが、ありがたい。

 

蕎麦の収穫は、去年の彼の畑以来2年目なので要領がわかる。
雑草と蕎麦を見分けるのもかんたん。
なによりも今年は、ラインを作って植えてある箇所があり、効率よく収穫ができた。
すごい進歩だと思う。

 

畑仕事よりも、飲み食いしている時間の方が長い気もする。
友人の人柄なのだと思うが、ご近所の方々や山の仲間たちが集まってきて、にぎやかだ。
昼ご飯は、青空のもとビールを飲んで、握り飯とウインナーと卵焼き。これぞ、畑仕事のだいご味。
収穫を終えた夜は、「ここは唐揚げセンターですか?」っていうぐらいの唐揚げに色んなお惣菜。
家族も加わって、たわいもないけれど大切な色んな話をしながら、夜が更けていく。
料理は作り手の匂いがでるけれど、ホント温かいし、心根の優しい家族だから食卓も温かい。

 

写真は蕎麦の隣に植わっていたトマトのコンパニオンプランツ、マリーゴールド。
ネパールでは生垣やベランダに好んで植えるけれど、それも虫よけなのかな。

 

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2020年11月 8日 (日)

小山義治油彩画展@安曇野山岳美術館

安曇野山岳美術館へ。
「北穂高小屋を建てた男 小山義治 油彩画展」

 

独特の空気が流れる空間に仕上がっていました。まるで、北穂高小屋に舞い戻ったような錯覚になりました。
久しぶりに直にみた、義治さんの油彩画も迫力がありました。初期のものから、抽象画となる後期のものまで。それと、北岳と甲斐駒ヶ岳・摩利支天を描いたものがありました。
北穂高小屋の看板と山頂の道標は、学芸員の方が忠実に再現したもの。「山頂で、魚拓とったんじゃない?」って冗談を言っていたほど、忠実であることは、北穂をよく知っている方にはよくわかると思います。「三〇一六m」のエムの字にも注目してください。
常設展には、北穂高小屋と縁の深かった足立源一郎さんの作品もあります。足立さんの作品は険しい印象があったのですが、ここに展示されているものは柔らかい画風。
それと、カラコルムを描いた原田達也さんの絵画を見ることができるのも、貴重だと思います。
ものすごくよかったので、できれば会期中に再訪したいと思っています。

 

11/25まで、木曜休館。
安曇野市の北アルプス側を走る、いわゆる「山麓線」を少し入ったところにあります。

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2020年10月29日 (木)

今シーズン最後の北穂

2020/10/17-20
冷たい雨のなか、横尾まで。
足元は甘い桂の葉の匂いだけれど、うっすら見える山肌はどんどん白くなっていった。こんななか、よっちゃんと飯島さんは登っていったのか。
山で迎えるって、ちょっと涙が出る。

 

翌朝は、青空。
北穂沢を使うことにした。インゼルを右に見ながら、松涛岩を目指して。最後、朝に足立さんがつけたというトレースを見つけて、使わせてもらった。

 

そのまた翌々日の下りは、前日に足立さんと大野さんが整備してくれた南稜を。
涸沢の下で、上山するナベさんと行き会う。重荷を大岩に寄りかからせて、大汗を手ぬぐいで拭きながら、ちょこっとおしゃべり。

 

最後の最後で、今年の北穂に登れてよかった。
四半世紀前の出会った頃、20年程前に取材を始めた頃は、表面的なことしか見えていなかったのかもしれない。
「お互い若かったんだよ」と当主のよっちゃんは言うが、北穂高小屋が建って70年余り。この時間の流れを見渡し、もう少しだけ広い視野を持てるようになった。
相手の胸にも、もっと飛び込めるようになった。
互いに敬意をはらい、思いやりながら作ってきた大切な関係。

 

山小屋としても、そして書く仕事としても、原点に北穂があることは、とってもありがたい。
長い間、思いやりを与え続けてくれる存在が、ほんとうにかけがえがない。

 

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2020年4月30日 (木)

小屋番さんの日記/七丈小屋

友人が説明なしで、LINEに送ってきたURL。
クリックすると、甲斐駒ヶ岳黒戸尾根にある七丈小屋の小屋番さんの日記。
ココ

温かい気持ちになる自然描写で始まるその文章は、小屋番さんの優しさがあふれていた。
withコロナの世界になり、みなが初めての体験をしていて、しかもその相手は目に見えない。
こんなときに心に沁みるのは、温かさや寛容性がある文章であり、写真であり、映像だ。
過多な情報でもなければ、滔々と説かれたメッセージでもなく、ましてや同調圧力でもない。

最近あったこと。
感染症の臨床を、しかもアフリカの設備のない病院でやってきた友人と話していたとき。
「人に会わなければうつらないから、大丈夫だよ」と言われ、「人に会えないことが、ものすごく辛いんだよ」って言ってしまった。
言ってから後悔した。医療従事者たちは、日々人に接している。陽性・陰性関係ない。
べつの医師が、呟いていた。薬物をやって混乱している人だろうが、自ら死のうとしている人だろうが、日々接しているというようなことを。彼は精神科の救急救命医だ。医師たちは、目の前の人がなんであれ、その命を救おうと尽くす。
私の友人たちは、めちゃメンタルが強いけれど、それだって、プレッシャーや恐怖心がないわけがないって思う。
そんななかで、日々人に接し診療を続けている人に対して、「人に会えないのが辛い」と言った自分が、ものすごくイヤになった。
けれど友人は、優しい一言を返してくれただけだった。

ある日は、友人のFacebookで、毎日新聞に山極寿一・京大学長が寄稿していることを知った。
3/31深夜に帰宅して入り、1度のどうしてもの外の仕事と、その帰りのスーパーマーケット以外、毎朝のランニングしか外出していない。
けれど、これはどうしても読みたくて、歩いて1分のコンビニへ走った。いわゆる自粛生活をスタートして1ヶ月。初めてのコンビニだ。
山極さんがフィールドワークしてきた、アフリカのゴリラやチンパンジーとエボラ出血熱の話。それを通じて、コロナ社会、ポストコロナについて論じていた。新しい国際社会、経済秩序、人々の暮らし方、新しいことへの変容が求められていると。人類はいかなるものなのか、改めて教えてくれもした。それはまるで、愛する人に会えないことを、辛いって言ってよいのだと、会いたいと言ってよいのだと、科学者の目線で優しく肯定してくれているようだった。

先の小屋番さんの日記。
読んでいて、優しい心をもった彼が、遥かなる眺めを前にした清々しいだろう空気の山のなかで仕事をしながらも、虚しく息苦しく思っているという、その気持ちを想像すると、辛くなった。
URLを送ってくれた友人に、「涙が出てきたよ」と返信すると、「そうでしょ」とひとこと。

いろんなことがあるけれど、人々の優しさが心に沁みる毎日。

 

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2020年4月 1日 (水)

中央道の電話

諸々の仕事に区切りをつけて、昨日夕方、中央道を走って帰ってきた。
帰る前、村を出る時に、偶然にも友人がデッキに出て洗濯を干しているのを見かけた。
会いたかったけれど、会わずに帰ろうと思っていた矢先。
距離があったけれど、思わず名前を叫んで、手を振ったら、気づいてくれた。

中央道を走りながら、沿道に住む友人たちのことを思い出し、SAにクルマを停めて電話をした。
LINEでは話していたけれど、声を聞きたいと思って、電話をした。
互いの近況を話し、東京に帰ることを報告し、電話を切り、運転を続ける、を繰り返す。

自分自身の行動に軽率な点もあったと省みるけれど、いまからでも正せると思い、一晩かけて考え、帰宅してやるべきことを整理し、戻ることにした。
2週間余り前に読んだ、American Alpine clubのInstagramがどうしてもアタマから離れなかったから。
コチラ
そして今日は、そのことを所属団体で意見してみた。

リスキーでストレスフルな土地に帰るな、ここに泊まれ、留まれという友人たちばかりだったし、最後には「コメを持っていけ」ともたせようとした人がいたりして、泣けてきた。

けれど、そんないきさつを経て、相手の声を聞くっていいな、と思い、今日の自宅での仕事は、何軒か電話をかけた。
来週訪問予定だったところへの断り電話をした先は、留守電になっていたので、メッセージを入れてみた。
いつもだったら、黙って切って、メールを入れておくところだけれど。
それに、声を聞きたいのはこちらであって、相手が私の声を聞きたいかどうかなんて、わからないけれど。

暖冬、少雪といわれたこの冬だったけれど、自宅裏の桜は、去年の今ごろと同じように満開。

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