ルクラフライトを心穏やかにやり過ごすコツ
キャンセルの多い山岳路線・ルクラフライトを心穏やかにやり過ごすコツは、焦らないこと。どーにでもなれって思うコト。そのためには、暇つぶしの本も必要だし、昼寝もよし。けれど、情報収集やコネづくり、ネゴも重要です。
帰路は1日予備日あり、それもダメだったら3日目のファーストフライトをねらって、カトマンズに到着次第、デポ品をともかくそのまま空港に持ってきてもらい、国際線に乗り継ぐというハットトリックしかない状態だった。あるいは、どこかのヘリを拝み倒すか。
ギリギリの予定は立てるな、これもコツか。
朝はカトマンズ盆地霧のため、マウンテンフライトがオールキャンセルという絶望的なスタートだった。
ライ族と結婚したという日本人女性がやっているお土産物屋でおしゃべりをしていると、10時頃、タラの1便が飛んだというニュースを、空港の整備士が持ってきてくれた。地元密着ポイントにいるといい情報もすぐに入るものだ。
しかしその後は鳴かず飛ばず。スタバ風カフェでひたすら読書。
15時頃になって、なんとなく知った顔のダイがふたり、「ディディ、フライトだ」とやってきた。
誰だかわからなかったけれど、小さな村だからオオゴトにはなるまいと思って店を出た。
宿の主人であるパサンは、空港に通じていて、私達のエージェントからもフライトのケアを依頼されている信頼できる方だ。
そのパサンが空港にいて、シミティックの搭乗券を出してきた。もちろん手書き。
私が持っていたタラの3便は飛ばないだろうという彼の予想によるもの。
結果的には、シミティックもキャンセルになり、次にパサンが出したゴマに乗ることになった。シミテックをぐちゃぐちゃに丸めてポケットにしまいこみ、ゴマのチケットを手書きしたのだ。
KTMからカーゴ便でやってきたゴマが帰路、乗客を乗せて帰ると言いだしたらしい。
まさかカーゴ便にひとを載せるとはだれも思ってもおらず、小さな空港は混乱状態だった。
しかし、これで乗れると思ったところ、最後にもうひと山。
そのゴマがオーバーブッキングをしており、控えめにいちばん後ろに並んだ私が乗れなそうになったのだ。
そこをまた、パサンが交渉。早口のネパール語が飛び交い、もはや彼が何を言っているのか聞き取れなくなったが、30キロ近い登山道具も一緒に載せられることになった。
最後に、「うちに泊まってくれた、大事なお客様だからね」と言ってくれたが、ゆうべのうちにパサンといろいろおしゃべりをしておいてよかった。
ルクラのみんなに「ラッキーガール」と叫ばれながら、ラストフライトの最後の1席に乗って、無事予定の日のうちに帰ってきた。
20年以上の付き合いになるアヌーの息子がゴマに就職し、パイロットのトレーニングを始めたと言っていたから、私がゴマで帰るのも最初から決まっていた縁だったのかもしれない。
17時過ぎに飛び立ち、有視界飛行ギリギリ。夕陽を浴びたヒマラヤの山々が本当に神々しかった。
山のなかで別れてきた花ちゃんとすずぴーのことを思い出した。時間がギリギリだったので仕方ないとしても、自分がちっとも山に登れず、スパンティークの出番もないまま帰ってきたことも、実はものすごく心の残りだった。
ふたりが、峠の途次で座り込んで書いただろう手紙は、無事シェルパの手で私のところに届けられ、機内で繰り返し読んだ。
空港ターミナルに到着したときには、日も暮れていた。
ホテルに着くと偶然同じに日BCから戻ってきたヒロタカさんとタケさんが、「九回裏起死回生だね」と言って待っていてくれて、またもや……二人が大好きなサムギョプサルへ。
KTMはティハール(お祭り)の名残りがあり、街の灯りが何となく綺麗だった。
昨日に続いて、facebookの思い出機能に出てきたものを再掲。旅がしたいな。
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