思い出深い島、きっと一生心のなかにあるだろう島が、世界中にふたつある。
ひとつは、「Believe」という意味の名をもつ港がある島。もうひとつは、宮城県大島。
ふたつの島の共通点は、どちらもタンポポが咲いていたことと、それぞれ2回ずついったことがあり、どの訪問も、島の思い出と同じように大切にしたい人達といけたということだ。
宮城県大島に渡ったのは、30年ぶりだった。
大学2年生のGW、白神山地の縦走を終えたあと、手元にあったJRの「東北周遊フリー切符」で回れるところをと、弘前から盛岡に出て、花巻や遠野を旅して、そこから太平洋側に出た。三陸の海岸線を走る列車や船に乗りながら、南下。すべてフリー切符で乗れる乗り物だった。やがて、気仙沼に着き、そこからフェリーに乗って渡ったのが、大島だった。
港近くの路上で売っていたホタテを買って、船に乗り込んだ。
島にはキャンプ場があって、そこは一面タンポポが咲いていて、どうやってもタンポポの上にテントを張るしかなかった。ちょっとふわふわしていて、青い青い海が臨めた。
島の記憶は、それしかない。
そして、この旅のその先に記憶もなく、その後どんな経路を辿って千葉の家まで帰ったのか覚えていない。だから、この旅の最後の記憶は、黄色いタンポポの野原と青い海原だ。
今回大島に行くことになったのは、数年前にナムチェバザールのバッティで初めて会った女性が、住んでいるからだった。
正確に言うと、10年近く前、あることを通じて彼女の存在は知っていた。
いくら、3.11後のボランティアで通っていたとはいえ、縁もゆかりもないこの地に暮らしを移すというのは、逞しいなあ、勇敢だなあと思っていた。
私の好きな大島に住んでいることもあるし、また山を再開したいと話していたので、一緒に東北の山に登り、その後大島に寄せてもらおうという計画だった。
大地震と津波で甚大な被害を受けた沿岸漁業を営むお宅におじゃまして、牡蠣の耳釣りの手伝いをさせてもらったり、その友人Sさんにあちこち案内してもらったりして、時間はあっという間に過ぎた。
地元の人たちとの交わり方や話の端々に、この地でSさんがしっかりと根を下ろして生活していることを垣間見た。
そして、大島がとっても魅力的な島であることを、あらためて知った。
まるで、ノルウェーのオーレスンを連想させるような地形を見下ろすことができたり、亀山に上がるとあっちもこっちも海が眺められて、水平線まで見える。とても、平和的なところだった。
さらにSさんは、思い出のキャンプ場にまで連れて行ってくれた。
季節が違うので、タンポポは咲いていなかったし、設備が整備されたのか、記憶と一致しない点もある。けれど、きっと私達は、港からこのキャンプ場までの遠い道のりを、山道具が入った大きなザックを背負って歩いたんだと思う。長い上り坂だ。お金はなかったけれど、若さがあって、不便であることはちっともいとわなかったし、お金がなくても幸せだったし、それ以上に大切なものをもっていた。
そんな30年前のことを思い出して、そして新しい地で逞しく暮らす友人を見て、私も色んなことを、もっとまっさらにしようかと、そう思えた。
島を出るとき、フェリーの甲板から岸に目をやると、昼に牡蠣の作業でお世話になった家族たちが、大きく手を振ってくれていた。たった数時間の付き合いだったけれど、なんだか涙が出そうになった。
そういえば、ノルウェーを旅したとき、一足先に帰る私たちをじょっくんは港まで見送ってくれた。時間ギリギリでフィヨルドを渡るフェリーに乗り込んだあとは、フェリーの切符とバスの切符を購入したりとあたふたしていた。やがてフェリーが離岸すると、かなっぷが「ぜったいにじょっくんがいるはずだ」と言い出し、甲板に出た。
するとじょっくんは、笑っちゃうほど体を大きく揺らして、手を振っていた。
そんなことも、大島を離れるフェリーのなかで思い出した。
色んな大切なことを思い出したし、それは全部とても大切なことだけれど、これからの人生はその先にあるので、だからもっといろんなことをまっさらにしようと考えた。
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