父との散歩
その帰り道、ちょっと近くを散歩してきた。
書き上げた原稿を編集者に送っておいたのだけれど、珍しくすぐに返事が返ってこなかった。彼はいつも、すぐに返事をくれる。
「これから会議だから、今すぐは読めないけれど、夕方には連絡します」というとりあえずの返事の場合もあるが、読んでくれた場合は、良きにつけ悪しきにつけ、コメントがある。
良かった場合は、ずばり褒めてくれる。なんとも爽快な褒め方で、誰に褒められるよりもうれしくなってしまう。まあ、そこまで爽快に言ってくれたことは、記憶のなかでも数回しかないけれど。
改善点を求められる場合も、ある。それは執拗なまでの箇条書きにされていることもあり、なかなか手厳しい。手厳しいけれど、とてもありがたい。
ここまで熱心に読んでくれる人は、ほかにいない。
つくづく、書き手は、編集者なしでは生きていけないと思う。
とりあえず、原稿を持ったまま美術館へ行った。
吉田博は表現者としても行動者としてもパイオニアであることを知り、作り上げた作品も素晴らしければ、「何をやろうとしたか」その姿勢もまた偉大であることも知った。
これはまるで、いま私が書いている登山家のようではないか、とも思った。
そんなことを考えながら美術館を後にし、大和橋まで歩いて行った。
小さいころ、よく亡父は、「澄子は、大和橋のたもとで拾ってきた」と言った。自分の娘を橋のたもとで拾ってきたという父親がいるのかわからないが、父はちょっと変わったことを言う人であることは、幼心ながらわかっていたので、なにも気にしていなかった。けれど、大和橋に来れば、必ず父のその言葉は思い出す。
ここへ来たのは10年ぶりぐらいだろうか。
そして、ハタと気づいた。「拾ってきた」と記憶していたけれど、「澄子は、大和橋のたもとで産まれた」と言っていたのではないだろうか、と思い至った。
母が私を出産したのは、大和橋から仰ぎ見ることのできる猪鼻山にある病院なので、当たらずとも遠からず。いや、「大和橋のたもと」と言ったのには、意味があったのではないかと、考えた。
父は、とうの昔に亡くなっているので確かめるすべはなく(いいや、生きていたって、そんな会話はしない父娘であり)、気づいたというよりも、そう想像したって方が当たっているのだが。
私が30代半ばのころ、比較的短い入院期間を経て亡くなり、自営だった父の仕事の後片付けは、従業員たちと相続者である私と一緒にやり、てんてこ舞いだった。けれど、片づけをしながら、従業員や取引先の人たちと顔を突き合わせながら、父の職業が社会的にどのような役割をするものだったのか、また彼の仕事ぶりがどんなだったか、知った。
それらと重ね合わせて考えると、ひょっとしたら「大和橋のたもとで産まれた」と言ったのかもしれない。
そんなことに、いまさらながら思った。
大和橋は、父にとっても私にとっても、とても縁の深い場所であるけれど、もうなかなか来ることもなくなってしまった。
ブログは、仕事(原稿書き)を始める前の準備体操だったりする。
今朝も、準備体操をしていたら、体調不良ながら入稿のためだけに編集部に這ってきた(這ってきたは、私の想像域)の編集者からメールが来た。
「全体的に、まどろっこしいです」。
その通りなんです。体操を終えたので、本業へ。

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