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2011年5月

2011年5月31日 (火)

大学講義4日目

サチコさんは、会社へ。
私は新幹線に乗って、東京へ。

大学の講義4回目。今日はウエアと装備の話。
講義終了後、センターへ行き、秋以降の講義についてミーティング。

夜は、まさみんと急きょ、神楽坂で会うことになった。
帰路の新幹線から、私が昨日のS先生との面会についてメール報告すると、「これは会って早急に話をせねば」と。「こんな難しい話題、神楽坂ぐらいパワーのある場所で話さないと、無理っしょ」ということで、毘沙門天前待ち合わせと相成ったのだった。

前回目をつけておいた、焼き鳥も刺身もあるという縄のれんへ。

2011年5月30日 (月)

大阪のみんな

大阪は堺へ。S先生に会いに行く。
いろんな話をして、インスパイアされ、そして納得した。
彼女の自宅に到着したのが朝の10時。家を出たのが夕方の6時。途中、彼女が準備してくださっていたおにぎりで簡単なランチを食べたけれど、それ以外はノンストップで話続けた。
まったくタフな方である。82歳とは思えないほどお若くみえ、また失礼承知でいうと、とってもチャーミングな方だった。

夜、本町へ。
M本社のサトーさん、ササキさん、サエちゃん、アイカちゃん、サチコさんが集まってくれた。
サトーさんは明日から出張だというのに、私が連絡したところ、みんなを集めてくれたのだった。深謝。

いつもみんなが行くという飲み屋へ。
なんとサトーさんが飲み屋のおかみさんに、「この人、カナモリくんの奥さん」と言ったら、彼女は「ああ、そうなのぉ!」と。
へ? 本社勤務は20年前まで。その後はずっと東京勤務なのだけれど。これは出張のたびに、ここに飲みに来ているとしか思えなかった。

遠距離通勤のアイカちゃんが帰り、夜遅く飲み屋を出た。
明日から出張という深刻な問題を抱えたサトーさんは一刻も早く姫路の自宅に帰ったほうがよいので、駅へ。
(といっても、帰宅途中の公園で、自転車に乗ったまま眠ってしまい、朝を迎えたらしい)

私は、残りのメンバーとカラオケへ。
サエちゃんは、タニくんがいないからと尾崎豊を歌い続け、ササキさんもなんかササキさんらしい歌を歌い、しまいに「スミちゃん、これ好きでしょ」とまったく知らない歌を私にあてがい、そしてサチコさんは、とってもいい声で、いろんな歌を次々と、歌っていた。
彼女は歌が大好きのようだ。

深夜解散。
私はサチコさんとホテルへ。

2011年5月29日 (日)

『山と溪谷』6月号 

報告が遅れました。
今月15日に発売になった『山と溪谷』6月号に以下の記事を書きました。
よかったら、ご覧ください。

   「登山で活かすウィルダネス・ファーストエイド」(集中4回連載) P170-175

昨年12月に8日間かけてWMAWilderness Medical Associate)のWAFAWilderness Adbanced First Aid)とBridgeの講習を受講・修了し、WFR(Wilderness First Responder)の資格を所得しました。その講習内容について、主だったことを連載します。たった4回の連載(合計たった24ページ)で、全てを紹介できるわけではありません。また、私たちは8日間、まさに睡眠時間を削って授業を受け、自主勉強し、シナリオトレーニングを重ねてやっと身に着けた(その第一歩、入り口に立ったというような感)のであり、誌面を読んだだけでこれらの技術や知識をマスターできると誤解されても困ります。

しかし、読者の方々がそれぞれ持っていらっしゃる、ファーストエイド、あるいはウィルダネス・ファーストエイド、あるいは登山に関連した医療知識や救急法の知識について、より一層の理解を深める機会にはなってくれると思っています。

初回は、PASシステムとよばれる傷病者評価システムについて。これが、全ての根幹にあります。

   書評 『エベレスト登頂請負業』(村口徳行著) P143
これまでに5回エベレスト登頂、日本人最多の回数である映像カメラマン村口徳行さんの著作です。
彼がこれまでに参加したエクスペディションについて、ざっくばらんに書かれています。痛烈な批判もあるけれど、登山や登山者、エベレストに向けるまなざしはどこまでも優しく温かく、彼らしい愛情のこもった文章です。

渡邉玉枝さんと登ったエベレストとローツェの章は、とても清々しいです。
村口さんが書いている通り、彼女は自分を失わず、山と対話しながら登り、絶妙の美しいバランスをたもった方。こんな美しい登山ができる人は、本当に彼女自身も美しいと……いつも玉枝さんをみて思うのだけれど、今回もその気持ちを新たにしました。

   震災チャリティ「サバイバルナイト1」開催 (報告) P132
加藤直之さんと長濱香代子さんに話をしてもらった、サバイバルナイト1について、簡単記事報告。加藤オージとかよちゃんのツーショット写真が載っています。

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2011年5月28日 (土)

F山岳会総会

所属するF山岳会の総会。
今年は月例山行も、また1ヶ月おきにあるミーティングにも出られないことが続いている。

総会のあと、午後から、東京都山岳救助隊の元副隊長であった金邦夫さんがお話をしてくださることになった。
主に奥多摩での遭難事故について。
金さんは、私の大好きな山ヤさんのひとり。
彼の登山経験、それと救助隊として深い経験に基づいた話であり、また具体的データも示してくださり、とても感謝。


その後、金さんを囲んで飲み会へ。楽しい時間となった。
最後のほうで、別のテーブルに座っていた先輩方に「ちょっと、ちょっと」と呼び出され、あちらのテーブルへ行くと。
「なにかあったんでしょう」と鋭い目線で、私はたちまち数人の先輩方に囲まれた……汗。

まったく人生の先輩方の目はごまかせません。
具体的な話はしなくても、なにかがあって毎日苦しい日を送っていることや、それに疲弊してしまっていることは大バレ。
なにか話すと、彼女らの優しさに泣き出しちゃいそうだったので、無言を決め込むことにした。
先輩たち、ありがとうございます。そういう存在に、救われた日。

2011年5月27日 (金)

スタジオ撮影

終日スタジオ撮影。
H
出版社の地下にあるこのスタジオは、以前も数日間こもったことのある、なじみの場所。

今回のカメラマンはオカザキさん、初めて仕事をご一緒する方。
ほかいつもの編集者、オオヤさんとヒロタさんが集まった。

2011年5月26日 (木)

ネパール組編集会議へ

今宵は、MJリンクネパール組の編集会議。
eBooks
というシステムを使って、文集を作っているのだ。

愛知から出張中のはまーんが合流し、それから編集長である(こんなプロフェッショナルな方に編集長をお願いしてしまってよいのだろうか)ケイコさんと、編集部員に名乗りを上げてくれた泉さんとバンチョーの5人が集結。

途中、愛知に帰るというはまーんが新幹線に乗るために帰って行ったが、残りのメンバーは閉店まで飲む。
私は終電に飛び乗ったが、残りのメンバーはさらに次の店に行き、そしてさらにケイコ邸に吸収されていったそうだ。

ネパール組の方々は、頻繁に飲み会をしているようで、なんともタフというか、いったいいつまでこの熱が続いていくのか少々心配。

2011年5月25日 (水)

南青山へ

夜、まさみんが南青山のヒーリングスペースでやっているというヨガへ。
なかなか思ったよりも広がりのあるスペースだった。
ちょっと不思議な感覚の部屋。

ヨガのあと、近くにあるかよちゃんのオフィスに寄って、あれこれおしゃべり。
互いにこの夜も仕事が残っているので、すぐにおいとまするつもりが、それでも30分ぐらい話をした。

怒涛、いばらの数ヶ月、かよちゃんの言葉に何度も励まされながら、過ごしてきた。感謝。
ちかぢか、オフィスを引っ越すと言うので、植木鉢をいただいてくる。
ありがとう。

2011年5月24日 (火)

大学講義3回目

大学の講義3回目。なかなか慣れない。

夏山の気象について。
講義は合計9回。あと6回続く。
週刊誌に連載しているような気分だけれど、ほんとうは、登山は山に登ってナンボなので、登山実習のある講義がいいなあと思ったりする。

2011年5月23日 (月)

阿佐ヶ谷ランチ

今日も阿佐ヶ谷の橋谷さんのところへ行き、インタビュー。来月上旬までいったい何度ここを訪れることになるのかは、よくわからない。
お昼になると、橋谷さんのお心遣いにより、毎回違うところへランチに連れ出してくれる。
モダンチャイニーズ、アメリカンなハンバーガー、南欧っぽいパスタ、など。
すっかり、阿佐ヶ谷ファン。

2011年5月22日 (日)

サバイバルナイト2 Day2

天候に恵まれたこともあり、また皆さんのがんばりもあり、参加者全員でビバーク後の朝を迎えることができた。
各班で朝ごはんを食べてもらったあと(各自自炊)、朝ヨガをして、その後にシェアリング。

昨日の講師の加藤さんの話は、彼がアラスカ大学で学んだアークティック・サバイバルや、その後US各地で学んだウィルダネス・ファーストエイドの知識が地盤にあった。
そしてさらにはアラスカやヒマラヤ、日本の山を登り続けてきた経験に支えられた話だった。

私たちは、「登山」という分野での知識と経験からしか、「いかに身を守るか」「生き抜くか」という話はできない。
けれど、参加者の方々は、年齢も職業も社会的立場も本当に幅広くいろんな方々であり、私たちからお伝えしたことを、自分たちの場に置き換えたり、消化してくれていた。
それぞれの考えを、文字通りシェアリングできたことは、本当に大きかったと思う。

今回は5班に分かれて行動してもらった。1班あたり大体5人だ。
初対面の5人が互いを尊重し、思いやりながら2日間を過ごしてくださったこと、素晴らしかったと思った。

と……かように、MJリンクしかり、ほかの仕事しかり、いつも参加者から学ばせてもらうことの方がはるかに大きい。


これまで私の文章を読んでくれていたというある女性が参加してくれた。
私よりちょっとだけ年上の素敵な先輩のような方だった。
お名前を見たとき、勝手に、テレマークスキーの講習会で一緒になったと勘違いしていたけれど、まったくの初対面だったことが分かった。
3.11
のあの日、息子さんが受験で被災地にいたことを聞いた。
登山やそのほかいろんな人生経験が豊富で、安定した落ち着きとたくましさがありそうな彼女ですら、そのことに少し動揺した様子を聞かせてもらい、親の心を思わざるを得なかった。

彼女には、「(これまでは文章を読んでいただけですが)思っていた通りの人でしたね」と言われ、なんとも身が引き締まる思いだった。

2011年5月21日 (土)

サバイバルナイト2 Day1

サバイバルナイト2の初日。
朝、加藤さんとまさみんと待ち合わせをして、加藤さんのクルマに乗せてもらって奥多摩へ。
キャンプ場に到着後、現場を見たりして、3人で最終打ち合わせ。

夕方、続々と参加者さんたちが集まってきた。
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のウィメンズ・マウンテンアカデミー参加者さん、いつも文章を読んでくださっているという方、それとなんと、3.11のあのとき一緒に仕事をしており、とうとう深夜まで行動を共にすることになった仕事仲間の方もご夫婦で来てくださった。

参加者さんの顔ぶれは、ホントさまざま。
子を持つ親、若い女性、学校教員、それといわき市からもおひとり。

加藤さんのレクチャー後、それぞれで夕ご飯を作ってもらい、いよいよ着の身着のままのビバークへ。
誤解なきよう解説しておくと、単に着の身着のままビバークに「挑戦する」と言うのではなく、いかに体力をセーブするか、体温をたもつかという野外で生き抜くために重要なことを学び、そのうえで、実践してみようという会なのだ。
だから、寝るときもとても皆さんアタマを使って、工夫されていた。

私は……というと、前半は皆さんのビバーク地近くで同じように着の身着のまま寝て(というか横になって)、時々見回りをするという役だった。
最初は30分おきに見回って、その後は1時間後でいいやと携帯アラームをかけて横になると、いつの間にやら爆睡。
まさみんとの交代時間を勘違いしており(もっと後だと思っていた)、彼女に「起きて、起きて」と起こされて、やっと気づいたという次第。

気候も穏やかで、実にビバークしやすい夜だった。

2011年5月20日 (金)

戸隠高原Day2

撮影二日目。
今日はテレビクルーの撮影日となるので、私たちは人物を入れない風景や草花などを撮る。

編集のHさんは、なんとお腹に赤ちゃんがいるのだけれど、元気に戸隠高原の木道を歩いていた。
登山の経験もなく、このたび登山靴と雨具を買ったばかりというのに。これで妊娠していなかったら、初登山で富士山ぐらいひょいって登っちゃいそうだ。
のちのち聞いた話では、クラシックバレエをやっているそうだし、学生のころはバスケットをやっていたそうだ。
ちゃんと体ができている人なのだろう。

戸隠高原は鳥がたくさんいるところだと、初めて知った。
帰ったら、サエちゃんに聞いてみよう。某山道具メーカーのトップデザイナーであり、ベストセラー商品を生み出している彼は、鳥の撮影のマスターでもあるのだ。

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2011年5月19日 (木)

戸隠高原Day1

編集者さんふたりとカメラマンさんと私の4人で戸隠へ。
現地で、橋谷さんや女優の方と合流して、撮影。

カタクリやミネザクラ
がきれいだった。

夕方撮影を終えて、宿へ。
夕食前に、がっつり1時間昼寝。これでなんとか、これまでの睡眠不足を取り戻したような。
夕食後、橋谷さんや女優さん、それからテレビクルーが泊まる別の宿へ行き、ミーティング。

夜遅く戻って、風呂に入って就寝。

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2011年5月18日 (水)

先輩編集者さんと

橋谷さんのインタビュー2日目。
朝から始めて、途中ランチを挟んで、夕方までみっちり。

夜は、仕事の大先輩、お世話になりっぱなしの編集者さんといっぱい。
あれもこれも、いろんな話をたくさんした。

尾崎隆さんの死について、「往年の登山家が亡くなるというのは、それがどんな理由や事故であっても、とってもショックなんですよ」と言うと、きらりと目が光った。
「往年」という言葉がひっかかったようだ。「柏さんにとっては“往年”なんだね。僕たちにとっては、同世代を一緒に生きた登山家ですよ」。
ああ、確かにそうだった。尾崎さんは外国に住んでいる時期も長く、私のようなものにとっては、遠い存在なのだけれど。
しかし、そういえば先日のてっちゃんの会でお会いした関西出身のガイドの方が、「お世話になっていたんですよ」と言うので、びっくりしたのだった。
彼は私より、5歳以上若いはずだ。そうか、関西クライマーにとっては、もっと身近な存在なのだと気付いた。

今晩の重要な案件以外にも、いろんな話をしたけれど、結局わかったことは、優秀な編集者というのは、仕事を依頼するのが上手だということだった。
とても断りきれなかった。
大丈夫なんだろうか、私は。あまりに力不足、役不足である。そして時間が割けるのかがわからない。

なんていう私の苦悩もどこしらず、編集者の先輩は来月からデナリに旅立ってしまうそうだ。

2011年5月17日 (火)

大学講義 Day2

大学の講義2日目。
八ケ岳南部が網羅されている地形図を使って、地形図を読み込みながら、登山の計画を立ててもらうという作業の日。

登山の計画を立てるということには、登山のあらゆる知識が動員されなければならず、実はとても難しい。
それを講義2日目でできるとは思っていないのだけれど、そうではなくて、ともかくまずは地形図を読んでみよう、どんな山なのか読み取ってみよう、そしてどれぐらいの時間がかかるコースなのか、自分の力で行けるコースなのか考えてみよう(夏と設定)、そして1泊2日の計画(山小屋泊りという設定)をたててみよう、という話である。

皆さんの計画はとても興味深かった。
勝手な印象だけれど、女性が発想するのとは違う計画のように思う。

なぜか全員スタートは長野県側。
登る山はそれぞれ……になると思いきや、お1人を抜かして全員赤岳だった。やはり主峰に登りたいのだと思う。その発想が女性には少ないように思うのだが。

下山は、てんでばらばらのルート。
清里側に下るかたもいれば、同じく美濃戸に戻ってくるのだけれど、往路とは全く違うラインを採っていたり。

登山において、地形図を読めるようになるのは必須の技術であるけれど、それはどんなことかというと、まずは現在地を把握すること(というか、現在地を見失わないこと)。
そして次に、この先のルートがどんな状況なのか読み取れるようになること。
だから、こうやって登ったことのない山について、地形図を眺めがら、あれこれ読み取って、計画を立てるというのは、とても重要なかつ基本的作業。

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2011年5月16日 (月)

ヒツジミーティング

朝、ミユキさんがNHKの番組に生出演することをすっかり忘れており……MLの投稿で気づいて慌ててTVの前へ。
途中からになってしまい、とっても残念。

彼女の専門は性差医療。勤務する病院は、日本の性差医療や女性専門外来をリードしている存在なのだと思っている。
私が、カトマンズでみんなのまえで、これまでの仕事のことや登山との関わり合いを話す時間があった。30分ほどの短いなかで、女性のことについて話した。
女性の人生のステージについて。学生は勉強をする、その後社会に出る、結婚して妊娠する人もいる、出産する、子育てする、子どもが親離れして、親の介護をして、その先は自分も老いて…それらのステージのなかで、好きなことを続けられたら、それは素晴らしいだろう、だからそういう思いもこめて、私自身はMJリンクを運営しているのだと。

その話を受けて彼女は、彼女の医療の仕事も同じだと言っていた。女性が生きていくための医療……という意味だと私は解釈下。
医学のあらゆる分野に「女性」という物差しを使って、横からもななめからも切れ込みを入れていくという新鮮な視点、分野。
とても興味深い。


夜は、週末のサバイバルナイト2に向けて、ミーティング。
講師をしてくれる加藤オージと、まさみんと3人で集まった。
目白川沿いの雰囲気のある店で、ごはんを食べながら、ひたすら話し合い。
夜遅く、解散。加藤さんは自転車で自宅に帰っていき、まさみんと私は恵比寿までおしゃべりしながら歩いた。
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2011年5月15日 (日)

白馬、穂高にて

今日、希望者は彼らの事故現場に上がって、追悼してくるのだという。
私は体調が本調子ではないのに加えて、精神的にはまだまだちっとも元気になれない、かなりダウンした状態であり、現場行きを見送った。

ゆっくりドライブしながら東京に戻ることにした。
まずは、落倉の湿原へ。
てっちゃんたちが惚れ込んでいた、白馬三山や不帰の山々を眺めた。

それから倉下の湯につかって、ぼーっとした。
ながらく、ぼーっとできる時間なんてなかった。いつもいろんなことにさいなまれていて、苦しかったけれど、今日は少しだけぼーっとできた。

2月のTNFのウィメンズ・マウンテンアカデミーのときに美味しいケーキを(しかも、ノースのロゴ入り!)プレゼントしてくださった、ケーキ屋さんのRiccaに寄ってみた。
バームクーヘンが名物のRiccaさんだけれど、バームクーヘンは友人たちへのお土産にし、プリンを食べた。

昼食は、故柳澤先生御用達のお蕎麦屋さんにて。

最後に、かねてより行ってみたかった田淵行男記念館へ。
記念館の規模はそれほど大きくなかったけれど、風情のあるたたずまいだった。
かつて企画された写真展のほうが出典数は多かったけれど、この雰囲気ある記念館のなかで、静かな時間が過ごせてよかった。

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2011年5月14日 (土)

ありがとう会へ

311日に小日向山で死亡したてっちゃん達のありがとう会へ。
私は当時、葬儀に参列できず、てっちゃんが岐阜の自宅に帰ってきたばかりのときに、お別れに行っただけだった。
夫はいろんな言い訳をして、お別れには行かないと当時、言い張っていた。振り返ると、あのときはてっちゃんに会わす顔がなかったんだ。

だからこうやってふたりそろって彼らの追悼に行くことは、私たちは友人として絶対にしなければならないことであり、これができなかったら本当に後悔してもしきれないことだったと思う。

お別れ会ではなく「ありがとう会」
てっちゃんと、それと落倉のあの家か雷鳥荘でしか実は会ったことのない市川さん、それから面識はなかったのだけれどもう一人のお仲間である林さんに「ありがとう」と言いに、白馬へ向かった。

本当に、ありがとう以外の言葉が、もうなにも出てこないような会だった。

てっちゃんの遺影は、この冬白馬にやってきていたジェレミー・ジョーンズの取材クルーにいた写真家が撮ったものだと、教えてもらった。
彼の精神性を映し出している本当に、悲しいほど素晴らしい写真だった。
成熟した表情というよりも、成熟という域を越えたような「老成」とでも言い表した方がよいような、顔をしていた。

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2011年5月13日 (金)

橋谷さんのインタビュー開始

今日から、阿佐ヶ谷の木風舎への通いが始まる。
ここを主宰する登山ガイドの橋谷晃さんにインタビューするためだ。
同行してくれているのは、ふたりの編集者。
前回同様、出版社は編集者をふたりもつけてくれた。ありがたい。
まったくもって時間がない。とうとう新記録を樹立せねばならないほど、本を作り上げるまで時間がない。
だから、編集者さん達は、ものすごくがんばってくれるらしい……ありがたい。

夜は、燕スタジオへ行き、まさみんのヨガ。
咳が止まらなかった。

その後、まさみんと緊急ミーティング。来週に控えているサバ2(サバイバルナイト2)のこと。
のつもりが……MJリンク話題に終始してしまった。

2011年5月11日 (水)

『ワンダーフォーゲル』6月号

ネパール前に発売されていた雑誌であるが『ワンダーフォーゲル』6月号(山と溪谷社)に、鈴木ともこさんの『山登りはじめましたⅡ』と鈴木みきさんの『ひとり登山へ、ようこそ!』の書評を書いた。

同じ苗字で、ふたりとも漫画を使ってエッセイを描いているけれど、まったく似て非なる人物だと思っている。
みきさんにはお会いしたこともなく、実はこれまでほとんど彼女に関連るすものを読んだことがなかった。
ともこさんとは仕事をご一緒したこともあるけれど、なによりも私は彼女の大ファンであり、やまはじ①もやまはじ②も熟読していた。

みきさんのことは、今回読ませてもらった著作と、一部の記事からしか知りえないのだが、ともこさんのことを、私は記事に書いた通り、「作家」だと思っている。
漫画家でも、エッセイストでもなくて、作家なのだ。
それも言うまでもないけれど、プロフェッショナルの作家なのだ。
だから、私たち読者は、そのプロの手で描いたものの世界のなかで、楽しませてもらっている。
プロは、そんなことを私たちに気づかせもしない……あやうくはめられるところだった…なんてことすら、思う。

彼女のことを書き出せば、もっともっといろいろ出てくるのだけれど、ともかくそういうことだ。

ということで、上記2冊、読んでみてください。
ついでに、私の書評も。

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2011年5月10日 (火)

獨協大学の社会人講座にて

今日から、獨協大学の社会人講座で、登山について教えることになっている。
社会人講座は御習いごとのように思っている人もいるかもしれないが、2単位を出さなければならない、責任ある仕事なのだ。

ちょっと緊張していくと、なんと受講生は全員男性だった。
まさか予想もしていなかったことというか、べつに性別はなんでもよいのだけれど、講義を始めてみて、つくづく私は最近、女性ばかりを目の前にしており、男性にものごとを教える機会がなかったことがわかった。

いったいこの先どうなるのか、少々不安だけれど、ともかく第1回はスタート。
全員の名前とプロフィールは覚えた。7人なので。


講義のあと、中央棟(教授たちの部屋のある棟)の5階へ。
通いなれた部屋だ。
タミちゃんこと、黒田多美子先生を訪ねた。私のゼミの先生、大大恩師である。
お留守だったので、書置き。

そのあと2階分下がって、外国語学部長であり、山岳部の部長先生をしてもらっている柿沼先生を訪ねて、しばしお話。

図書館を見回ってから、帰宅。
熱は37度前半まで下がっているので、かなり楽だった。

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2011年5月 9日 (月)

帰国後、明日の仕事の準備

昨日ぐっすり寝たら、熱が37度後半まで下がった。ずっとどんなに薬を飲んでも入れても、38度台までしか下がらなかったのに。
しかし、夕方になって、留守中にまた泥棒が入ったことが判明した。
まったく、私の留守を何かで調べて繰り返しているこの行為は、卑しいとしか思えない。

こんなことにもうこれ以上関わりたくない。
明日から、新しい仕事だ。

2011年5月 8日 (日)

Nepal Tour Last Day BKK→NRT

早朝、成田着。
ここで成田組も解散だ。
田部井さんは、このあとお知り合いの結婚式に参列し、夜はHAT-Jの集会へ行くという。
まったくタフだ。
ミユキさんは、この足で息子の運動会へ行くという。彼はオレンジ組だから、オンレンジ色のカーディガンを羽織ったのだと。母もタフだ。

何人かで残って立ち話をしたあと、別れた。

私は夫の車で、実家に立ち寄った。黄色いバラが咲いていた。
母に土産を手渡し、しかし原因不明としか言いようのない高熱のまま老母に接触し続けるのも、キケンなので、早々においとま。
ともかくかえって、ひたすら寝続けた。

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2011年5月 7日 (土)

Nepal Tour Day10 KTM→BKK

朝起きたら、昨日よりすっきりしているけれど、それは薬のおかげ。
問題は、薬を飲んでも38度台までしか下がらないこと。

朝ごはんは、たくさん食べることができた。
昨日心配かけたみんなにご挨拶。
キネコさんが、お見舞いも兼ねてか、素敵な手作り革製品(登山靴のキーホルダー)をくださった。
革小物を作るのが趣味なのだそう。のちのちヒデキを通じて知ったことだけれど、ものすごく手が込んでいて、そしてクールな通勤バッグも作ってしまうほどの、趣味というかその域を超えているプロの仕事だった。
カリグラフィーの仕事をしていたと聞いたけれど、こういう芸術的なことに長けた方なんだなあ。

フライトまでまだ少しあるので、みんなはお買いものへ。
「何かもっとほしいも、買ってこようか?」「うーん。でも、服とか布とか、アクセサリーだから、頼むのも無理かと」「そんなことないでしょ。結局いつも自分が選んだものは似合わないと指摘されて棚に戻し、みんなが選んでいるんだから」と……またまったく反論できないことを言われ……。
けれど、唯一、ホテルのアーケードで見つけた、オールド山珊瑚のネックレスは、記念になった。


バンチョーやほかのみんなも、体調をかばってくれ、空港でのチェックインなどやってくれた。ありがとう。
バンチョーは、いくら本職とはいえ、ワタコさんとふたりで旅行中の会計を全部やってくれた。
とても私にはできない……。

バンコクまでのフライトの間で座薬を1回入れて、到着。

ここで、関空組とはお別れになる。
空港を出ずに、関空組、成田組それぞれが数時間過ごすのだが、私はとてもマッサージなどに行くわけにはいかず(また熱毒が全身に回りそう)、静かにショッピングして、夕ご飯を食べて過ごした。

関空組の見送りを受けて、成田へ向けて最後のフライト。

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2011年5月 6日 (金)

Nepal Tour Day9 KTM観光

朝は、在ネパールの日本大使公邸に招かれ、おじゃました。
大使公邸を訪問するのは二度目。チョ・オユーの下山後、昼食に招いてもらったことがあった。

今回は、ネパールが初めてというメンバーたちのために、ビデオでネパールがどんな国であるのか簡単に説明してくれた。
考えてみれば、これまで山岳地域の話ばかりしてきた。しかし、ネパールは多民族・多言語国家
である。インド・アーリア系の民族と、チベット・ミャンマー系民族がおり、民族とカーストが複雑に関係し合っている点がまた複雑なのだ。宗教もしかり、元国教であるヒンドゥー教のほか、チベット仏教やアミニズムのようなものも存在する。
私たちはソル・クーンブを訪れたけれど、それとタライではまったく違う、住んでいる人の顔立ちも、気候も風土も地形も何もかもまったく違うことは、行ってみればわかる。

だから、このビデオでタライの話をしてもらったり、インド国境付近では特に深刻な人身売買やエイズ問題の話をしてもらったのは、とてもありがたかった。

個人的に印象深かったのは、王室暗殺事件のあったその王宮が一般開放されているという話だった。
これで、午後の自由時間に行くべきところが決まった(結局寝込んでしまい、行けなかったのだけれど)。

公邸近くのスワヤンブナートへ観光に行った。ちょうどリンポチェの28回目の誕生日だということで、祭典が行われていた。むろん、彼は今ここにはいない。
スワヤンは、一緒に旅したシャイリーとマヤたちがエベレスト登山の前に、トレーニングを積んだお寺なので、メンバーのみんなにもぜひ訪れてもらいたいと思っていた。
まあ、タメル方面から歩いてあの階段を上がらないと、彼女らがなぜここでトレーニングしていたかは実感しにくいのだが。


その後、急きょ、パタンを観光することになったとのことで、そのまま大型バスでカトマンズの隣町のパタンへ向かった。
私が最後にパタンを訪れたのは、日本ユネスコ協会連盟に依頼を受けて、カトマンズ盆地内の世界遺産指定地域の写真を撮った時だ。カトマンズのダルバール広場、パタンのダルバール広場、それからバクタプール、ボーダナート、スワヤンブナート、パシュパティナートの撮影をしていた。

カトマンズ渓谷は1976年に世界遺産に登録されたが、その後人口流入やその他の環境悪化により危機遺産にせねばならないほど、状況は悪化していたし、またそれを保護する国内法もまったくといってよいほど機能していなかった。たしか私が撮影していたのは、19982000年ごろと記憶しているが、結局2003年には危機遺産になり、06年にはその範囲が拡大した。その後、危機遺産から解除されているが、その根拠がどこにあるのか、まったくもってわからない。

撮影しえていた当時、カトマンズとパタンのダルバール広場で目立っていたことは、足元の石の煉瓦を全部はがして、貼りかえることだった。ちょうど数年前に、ラサのジョカン付近で行なわれていたこととまったくいっしょである。
貼りかえていた煉瓦は、以前のものとは全く性質が違うものであり、その道に詳しいネパール人が当時私に教えてくれたことによると、貼り方もまたまったく伝統的ではなく、これは遺産、遺跡の破壊以外のなにものでもない、ということだった。

今回パタンを再訪して、彼が当時言っていた意味がよくわかった。
パタンは、まったく違う雰囲気の街になってしまっていた。
当時、ドイツの援助のもと保護活動をしていたバクタプールは、いまどうなっているのだろう…自分の目で確かめたくなった。
午後に行けるだろうか、とアタマの中で計算した。

パタン観光はホント疲れた。
トレッキングよりも疲れるね、とみんなで言い合いながら、少々脱水気味になって歩いて歩いて、やっとバスに戻った。
ランチは、ギャコックだった。ちょっと上品なギャコックで、チベット人らしい野趣あふれるものではなかった。


午後から自由時間になった。
大河原夫妻には、初日のパーティでお会いできたけれど、大津夫妻にはご挨拶をしていない。
けれど、今晩のパーティに来てくださるというので、お言葉に甘えて、訪問するのは止めにした。
ホテル近くに住むネパール人の友人に電話してみた。ブータンやシッキムに行くときに、いろんな面倒を見てくれた人だ。
いまは、ポカラにいるという。簡単におしゃべりして電話を切った。
彼とはまたすぐ、いつでも会える。

どう欲張ってもバクタプールへ行く時間はない。であれば、王宮一本に絞ろう。
その前にマッサージでも受けるか、けれど遠くへ行くのは面倒だなあとホテルの地下へ行った。
マッサージの内容はちっとも悪くなかったのだけれど、なぜかオイルで全身をマッサージしてもらっていると、熱が出てきて、たちまちその熱毒のようなものが全身に回ってきて、ものすごく寒くなった。これはただ事ではないというか、とても耐えられなくなり、謝って、中断してもらって、部屋に戻った。
王宮見物どころではない。
ともかく夜のパーティまでに回復させなければならないと、目覚ましアラームをかけて眠った。

集合時間に下に降りて行ったが、まったくもって自分の体調に自信がもてず、ミユキさんに打ち明けると、おでこを触られ、熱を測ったほうがよいと。
ひえー。9度近く出てしまった。これはダメだ。
たちまち留守番となった。

薬をもらい、アクエリアスをもらい、水を買って、それからレセプションによって水枕をもらって、そして部屋に上がった。
ともかく寝るしかない。
大汗をかいて、寝て寝てしばらくたったら、みんなが戻ってきた。

ミユキさんとミエさんが心配そうに、部屋を訪ねてくれて、あれこれ私の代わりに仕事をしてくれると、引き継いでくれた。
ありがたい。ケイコさんも一緒にやってきて、「コレ、私の部屋番号」と置いて行ってくれた。ありがたい。

大汗でベッドがべちょべちょなので、隣のベッド(ツインのシングル使用なので)に移って、再び寝た。ともかく寝た。

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2011年5月 5日 (木)

Nepal Tour Day8 KTMに戻る ボーダナートへ

ルクラは、朝から晴れ。今日は無事に飛ぶだろう。
トレッキング中、ほとんどの人とゆっくり話ができなかったが、今日はフライトを待つ間に、遅まきながらいろいろな話ができた。
今日もフライトは2便に分かれる。今回は、田部井さんと私が2便目になり、1便目に西遊の添乗員である津久井さんが乗って行った。
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便目の出発を待って、宿の中庭に座ってゆっくりしていた、椅子に座るとちょうど、ザトルワ・ラの方面がよく見える。

ちょっぴり苦い思い出のある場所だ。
初めての海外旅行、ヒマラヤ登山で、私たち学生3人はあまりに引き出しが少なかった。切れるカードがなかった。
最後の最後で痛手だったのは、雪のなか下山してきたときだった。
今日中にルクラに着くのだから、なにがなんでもここを越えたかった。ザトルワ・ラでビバークするなんて危険すぎる。雪崩も怖いし、シェルパやポーターたちの装備では凍傷や低体温症の危険もあった。
けれど、キッチンのチームがストライキを起こしたのだった。それにうまく対処できず、一部のキッチンスタッフを残して、ほかのシェルパを説得して、ルクラまで戻ってきたのだった。

案の定、ザトルワ・ラ手前のカルカに泊まったキッチンボーイは、指が凍傷になった。最終的には切らずに済んだからよかったけれど。

その後、いくつかの登山や旅を経験して、シェルパなどのスタッフとの付き合い方を学んだけれど、20そこそこの3人組みはあまりに、当時子どもだったのだ。
けれど、その時のサーダ―、ザンブ―はとても紳士で、私たちによくしてくれた。それは、おそらく、大河原夫妻のおかげだということが、あとあと大人になってやっとわかった。


今回のメンバーたちの話はオモシロい。
競技スキーをしている人、昔バドミントンの実業団チームにいた人(という体力だというのに、このトレッキング前には自転車通勤にして体力をつけてきたというから、頭が下がる)、香港やニューヨークでのトレッキングについて話してくれた人、いろんなところを旅している話をしてくれた人、ベリーダンスを教えてくれた人(まったくマスターできませんでしたが)、化粧のあるべき方法を教えてくれた人……ユニークな方々ばかりで、ここにあげきれないが、いろんな話が聞けた。


果たして、無事2機ともフライトし、カトマンズに舞い戻った。
シャワーを浴びたあと、昼食へ。エージェントさんが案内してくれた日本食レストランへ。
あまりのボリュームに唖然。あるメンバーは「きっとここで夕方まで飲み続けろってことなんだよ」と言ったけれど、まさにそんなメニューが並んでいた。日本の居酒屋状態である。

半分も食べられないまま、ボーダナートへ。
話には聞いていたけれど、本当に姿が変わっていた。もちろん、ボーダの姿は変わっていない。そうではなくて、取り巻く雰囲気、空気感だ。
チベット人の参拝者が本当に少なかった。いったい、みんなどこへ行ってしまったのだろう。

夜は、これまたエージェントさんのご案内でレストランへ。
その帰り道、みんなでお土産物屋さんへ。
田部井さんのご紹介で、閉店時刻を過ぎても開けて待っていてくれた。
私は、さんざん、みんなからパシュミナの色選びが下手だと指導を受けた。
いわく、「柏さん、自分に似合う色、わかっていないでしょう」「柏さんはオータムカラーの人、だからコレ」「え?これをお義母さんに? 私がお姑さんだったら「スミコさん、これはちょっとね」と言うわ」「というよりも、なにも考えずに選んだでしょう、この色…」など。

まったくその通りで、返す言葉がない。

その後、ホテルのバーで一杯。

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2011年5月 4日 (水)

Nepal Tour Day7 ルクラに戻る

今日はいよいよルクラへ戻る日。標高はそれほど変わらないけれど、地味なアップダウンがあるので、相応にみんな疲労するだろうなあと思いながら、出発。
今日も、4班ごとに点呼を採ったりまとまってもらい、全体を2グループに分け、田部井さんと私で担当することにした。

今回、MJリンク初の海外ツアーということで、ネパールトレッキングに来た。
きっかけは、今年がネパール観光年にあたり、田部井さんがカトマンズに行った時に、話をつけてきてくださったことだった。
つまり、私たち日本の山ガールがネパール観光年にネパールトレッキングをすることによって、私が雑誌にそのことを書き、少しでもネパールの観光に貢献する。
その代わりではないけれど、ネパールの山ガールたちと交流できる場を提供してもらう約束をしたのだった。ほかにも、金銭的なことでも、ネパール観光局にはお世話になった。

これを好機ととらえた。
エベレストに女性として初めて登った先輩から、エベレストに近づき歩きながら、当時の話をしてもらえるなんて、そんな贅沢はツアーはない。
(*ここでいうツアーは、「ツアー登山」とは違います。旅という意味で使っています)

けれど、田部井さんと私ふたりでこれを行なうにはスタッフの人数が足りなかったことを痛感。
もっといつものようにMJリンクらしい旅にするには、サポーターを最低でもあとひとりは連れてくるべきだった。
予算の余裕がまったくなく、こういう結果になったのだけれど、来年以降の大きな反省点である。

シェルパがいるので、相応のリスクマネジメントはできるけれど、MJリンクのスタッフが必要だった。


ということで、今日なんとかルクラについて一安心。
最後はいつも通り雨に降られたけれど、スタバによって、温かいコーヒーをテイクアウト。
標高の数字が入ったルクラオリジナルカップに入れてもらった。

夜は、シェルパたちとお別れパーティ。
写真はそれにそなえて、ケイコさんとエイコさんがケーキにペインティングしてくれているところ。
ネパール語で「ダンネバート」(ありがとうの意)と書いてある。
ケイコさんは凄腕編集者で、エイコさんは写真家。この二人に頼めば、ペインティングも間違いないだろうと踏んだのだった。

ケーキのプレゼンテーターは、ザ・山ガールであるマリちゃんだった。
みな、それぞれの持ち分がある。

シャイリーとマヤが取り分けたケーキを田部井さんの口に運んでくれた。

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2011年5月 3日 (火)

Nepal tour Day6 アヌーと再会、モンジョに戻る

みんなそれぞれ寝苦しかったであろうシャンボチェでの一夜が終わった。
昨晩はチアノーゼがでていたけれど、改善された人もいれば、そのまま続いている人もいる。
私も顔と手がむくんでいた。

人それぞれ症状は違うし、程度も違う。
けれど、それは当然のこと。
もし今回の経験で覚えておいてほしいことがあるとすれば、自分がどんな症状になったのかなるべく客観的に記録しておくとこ。
自分の弱さがわかるようになれば、それでよいと思うのだ。
確かに、ほとんど全員でシャンボチェに登れちゃって、このまま無事に下れそうだ。
けれど、そんなのはどうってことのない話である。
判断は自分たちでしたのではなく、田部井さんと私に任せたはずだ。
その中で、自分の弱さが少しでもわかれば、それは今後の登山のなかで何らかの力となってくれるはずだ。

反対に弱さがわからなければ、これほど怖く危険なことはない。


出発前にナムチェの村に雲がうっすらかかっているのが見えた。
なんだか懐かしい光景だ。こうやって雲がうっすらかかるナムチェを、何度となく眺めたことがあったなあと思い出す。


クムジュンが見下ろせる丘まで登った。
そこで、クムジュンにある小学校を眺めた。
こうやって遠くから眺めると、クムジュンはそれほど変わっていないように思うけれど、しかし大きい変化があったのだろうなあ。
今回のトレッキングに向けて、私はいくつかの準備をしていた。

クムジュンの小学校、クンデの診療所(ソナムの家の隣にある)、ナムチェバザールの由緒あるシェルパたちの家、それぞれを訪問する手はずだった。
それについて、西遊旅行の澤田さんが実に懇切丁寧に相談に乗ってくださり、準備してくださっていた。それはとても心強いものだった。
けれど、フライトのディレイの影響があり、これらは一つも寄ることができなくなった。
とても残念だった。

ナムチェまで下って、山岳博物館に寄った。
博物館の位置も変わっていてビックリした。
けれど、登山隊がテントを張る位置はちっとも変っていなかった。
この博物館で、田部井さんの若いころの写真とご対面。
みんなの「なんだか、いまとあんまりお変わりないね」という声に、私も内心うなづいた。

ここには、エベレストに登頂したシェルパたちの写真が全部おさめられていると聞いた。
けれど飾ってある写真を見て、あれ、こんな少ないかなあ?というような印象だった。実際に彼もまた、別の彼もいないじゃん……とも思った。


ナムチェでの自由時間は20分ほど。メインストリートで別れて、ナムチェの入り口の水車のところで20分後に待ち合わせだ。
田部井さんは知り合いのオフィスに立ち寄ると、来た道を慌てて駆け上って行った。
私も寄りたい友人宅はいろいろあるけれど、アヌーの家に行くことにした。
今回、私たちのグループ全員で立ち寄り、話を聞かせてもらう約束をしていた家だったからだ。
アヌーのお父さんであるパルデンは、エベレスト初登頂のときのメイルランナーだった。彼はエベレストBCから初登頂の便りをもって、カトマンズまでたったの5日間で走ったのだけれど、その時、自分が持っている便りの内容は全く知らなかったという。日当が1インドルピー。カトマンズのエベレスト遠征隊事務所に着いて手紙を渡し、返事の手紙を受け取ってまた、エベレストBCに戻った、と話を聞いたことがある。

パルデンは、エベレストBCからカトマンズまでゆうに27回は走ったという。当時いちばん足が速いシェルパだったのだ。

彼の話のなかで印象的だったのは、「テンジンはチベット人だけれど、私はシェルパだ」と言ったことだ。エベレストに初登頂したテンジン・ノルゲイはチベット人であるけれども、私はシェルパなのだ、と言っていた。

ナムチェにはほかにも名シェルパが多く住んでいる。けれど、初登頂時代を支えたシェルパは次々と他界していっていた。
だから、私が今回みんなを連れて行くとしたら、パルデンの話をある程度忠実に語れる息子がいる、アヌーの家だなって思っていたのだった。

アヌーに会うのは実に十数年ぶりだった。
笑っちゃうぐらいちっとも変っていなかったけれど、少しやせたようだった。
今回約束をしておきながら、訪問できなかったことを詫びると「ちっとも気にする必要はない、それよりも会えてうれしい。昨日、スミコ達がナムチェを通ったと聞いたから、いつ顔を見せてくれるかと思っていた」と言っていた。
義理堅いアヌーはきっと、30人近い団体の私たちが訪問するにあたって、相応の準備をしていてくれたに違いないだろうに、申し訳なかった。

早速、去年やっと全部完成したという仏間に通してくれた。
信心深いアヌーらしい。立派な仏間だった。今もちょうど、お経を読んでいたのだという(写真)。
「今日はニュームーンだから、読むべきお経がたくさんあるのだ」と。

アヌーは本当に信心深い。だから一緒に旅していても、毎朝4時ぐらいになると、隣の部屋から読経が聞こえてくるのだ。数日間それが続くと、最初私はホント睡眠不足のようになっていたが、やがてアヌーの読経が子守唄のようにもなっていた。
橋や峠などに差し掛かると、どんなに先を急ぐ旅であろうと、タルタックを採りだし、「ルンター、ルンター」と祈りを掲げながら、張り巡らし、また読経。
本当に信心深い。

息子の話もしてくれた。ひとりは南アフリカでパイロットの勉強をしており、もう一人も同じく南アフリカで医者になる勉強をしているのだという。
「私たちは、学校も出ず、こんなだったから、息子たちには勉強をさせたくて」と。末っ子は、先ほど下にいた。あるアメリカの登山道具メーカーと正規に契約し、輸入販売をしているのだという。ナムチェにパチモンではない、まっとうなクライミングギアやウエアが並んでいることに驚いたが、こういうことだったのか。

アヌーとは本当に別れがたかったが、いつかまた生きていれば会えるだろうと思った。


みんなと合流して、再びモンジョへ向けて歩き出す。
心なしか、行きよりもサンを焚いているお宅が多い。しかもそれぞれいろんなモノに入れて焚いているのでオモシロい(写真)。
ひょっとしたら、アヌーが言っていたように、今日はニュームーンだからサンを焚く家が多いのだろうか。

往路と同じ、モンジョのバッティに投宿。
私は昨晩、遅くまで起きており、今朝も早かったのでとても眠たく、昼寝をした。
その後、みんなが泊まっている部屋を訪ねて、マッサージごっこに入れてもらった。

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2011年5月 2日 (月)

Nepal Tour Day5 →シャンボチェ

モンジョの標高は2800m、今日目指すシャンボチェは3800m。この標高で、1日に一気に1000mも上げることが、どれだけリスキーであるかは重々承知していた。だから、全員でシャンボチェまで行けなくても仕方がない、行けるほうがおかしい、それは無理をしている証拠ぐらいに思っていた。

このように無理に標高を上げなければならない時に、なるべく急性高山病を出さずにやり過ごすには、1)ゆっくり歩く 2)水分をたくさん摂る 3)揚げ物など消化に悪いものは食べない、できれば小食ぐらいがちょうどよい などのコツがある。最低でも以上の4点は守るべきことだった。

ナムチェバザールまでは班ごとに行動。昨日と同様、4班に分かれ、田部井さんと私で半分ずつ担当した。

ナムチェバザールで昼ごはんを食べる時点で、明らかに急性高山病の症状が出ている人たちがいたので、私は彼女たちと一緒に後からゆっくり上がることにした。

田部井さんはほかの人たち全員を引き連れて、先に上がっていった。

ナムチェバザールからシャンボチェに直接上がる道は、いわゆるエベレスト街道から外れており、急な上り坂となる。天気が崩れようが仕方がない、ゆっくり歩くしかなかった。

それまで、いったいここはどこ?と言いたいぐらいエベレスト街道の様相は変わっていて、以前歩いた道を歩いているとは思えなかったけれど、シャンボチェに向かって歩くうちに、ようやく、あああこういう地形、こういうところだったよね、と思いだした。

ナムチェからクンデへと何度か歩いたことがあったからだ。クンデは、大学の教授がフィールド研究をしていて、その縁で私たちはクンデに住むソナムの家にずいぶんと長いこと泊めてもらったことがあったからだ。

そんな懐かしい地形が出てきたころ、とても残念だったけれど、ひとりをナムチェバザールに降りてもらうことにした。

ルクラフライトがディレイしなければ、ナムチェで1泊する予定だった。そうやって順応すれば、シャンボチェに上がれるメンバーも増えただろうし、いま多少つらい思いをして上がっている人たちも、もっと楽に上がれたはずだ。

仕方がなかった。

けれど、急性高山病は本当に恐ろしいものであり、決してこれ以上の無理はさせられない。

ひとり下すと決まり、その指示をシェルパたちにしていたところ(つまり、彼女をひとりだけ下してほしいこと、それと先に上がっている彼女のバッケージもナムチェにおろしてほしいことなど)、シェルパたちは、「うんうん」とうなずき、あっという間にハチの子を散らしたように、散って行ってしまった。それぞれの任務に就いたというのだ。

それは素晴らしい。確かに、ココにはバラサーブはいない。田部井バラサーブから、「柏さんのいうコトを、よく聞いてよ」とシェルパたちは言われていたのだろう、だから忠実に私の言うことを聞いてくれたのだろう。それはありがたい。

しかし、私たち(メンバー4人+私)はたちまち、道案内人を失ってしまい、ガスった山の中に取り残された……。

「ねえ、柏さん、ココ来たことあるんでしょう」「うん、あるよ。20年前、何度も通った」「けれど当時は何にもないところだったからねえ、今日泊まるホテルなんて当然なかったんだよ。エベレスト・ビューしかなくて、だからどうやって行くのかなあ」と……。

ともかく踏みあと通りに歩くと、右手にホテルが見えた。

内心、ここで情報収集せねばと思っていたろころ、それを口に出すより先にミユキさんやケイコさんが「ねえ、情報収集できるところでしておいた方がいいんじゃない?」と。「こりゃ、かなり不安を与えているな」と思いながら、メンバーを道に残して、ホテルへ向かった。みんな結構疲れているし、よけいな体力は使わないほうがいいだろうから、休んでもらっていたのだ。

門番に尋ねると、彼が答えるよりも早く、窓からマッキー達が「かしわさーん」と手を振ってくれた。ああ、ココだったんだ。

とほっと一息ついて、みんなでホテルに入った。

濡れた服を着替えたあとは、ミユキさんに手伝ってもらい、一人ずつ問診した。今晩はほとんどの人が、急性高山病の症状が出るだろうと容易に考えられたからだった。

症状が出るのは仕方ないが、大事に至らずに夜を越して、明日はとっとと下りたかった。

登ってくるときは、濃い霧に包まれていたが、夕方になると雲が切れだし、アマダブラムなどが見え始めた。ローツェが見えたというから、ローツェシャールも見えたのではないかと思う。けれど、みんなの症状をまとめたり、必要な人にはアドバイスしたり、対策を練ったりしているうちに、あっという間に暗くなり、アマダブラムをちらりと目にしただけだった。

申し訳なかったのは、参加者であるミユキさんの自由時間を奪ってしまったこと。ものすごく丁寧に仕事をしてくださった。私ひとりでは、とても全員の健康管理なんてできないので、とても助かった。

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2011年5月 1日 (日)

Nepla Tour Day4 →モンジョ

昨日の出遅れを取り戻すべく、今日はルクラからモンジョまで歩くことになった。

田部井さんから、「モンジョなんてわからないでしょ」と図星のことを言われた。「あそこにバッティなんてなんもなかったものね。街道沿いのバッティの数はものすごく増えているから、驚くよ」と。それは全く大げさではなく、街道に入るためにルクラのメインストリートを歩いている時点で(つまりバッティを出て3分で)、すぐに感じた。

スターバックスがあるし、というか、メインストリートがあることそのものに驚いたのだった。メインストリートって確か、バッティが数軒と雑貨屋が2軒ぐらいじゃなかったっけ。

パグディンでランチ。

その後、レイコ先生とシェルパとマヤの3人で歩いてると、ざあざあの大雨になってきた。私たちはちょこっとした軒下で雨具を着こんだけれど、まったくそんなもの役にも立たないであろうぐらいの大雨になった。けれどまあ、なんとか4人でいろんなおしゃべりをしながら歩いた。

今回のトレッキングに、シャイリーとマヤの2人が同行してくれることになった。ネパールの山ガールのふたり、といってもエベレストサミッターだ。

2008年にネパール人女性のエベレスト隊がサミットしてるが、その時のメンバーであり、「Everest Women 7 Summits Eco-Action」という団体を作って、世界7大陸最高峰の登頂を目指しているのだという。

道中私は何度も、二人に、「エベレストになぜ登らないのか」「なぜセブンサミッツに興味を示さないのか?」と聞かれ、困ったものだった。

今日一緒に歩いたマヤは、グルン族の女性。自分の民族のことを少し語っていた。

歴史的に見て、グルン族が登山を知る由はなく(ポーターはやるけれど)、自分たちで登る楽しみを理解するようなことはなかった。だから、マヤはエベレストに登った初めてのグルン族になったのだ。

ぬれねずみになって、モンジョに到着。

私の部屋は、参加者とは違うバッティだということで、田部井さんに「あっちだよ」と教えられ(彼女と同じ棟)、荷物を運んだ。窓があるので何が見えるかな?と開けてみると、戸が開けっ放しのトイレが目に飛び込んできた。いわく、便器が見える窓だった……。

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