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2011年4月

2011年4月30日 (土)

Nepal Tour Day3 ルクラ到着

ルクラへのフライトは、なんと10時間待って、やっと飛んだ。

ネパールの国内便の中でも、ルクラフライトほどキャンセルになる確率が高いものはないと思うけれど、私は一度もキャンセルになったことがないのだ。

いちばん多く乗っているのは、ダージリンやシッキムに行くためのビラトゥナガールだと思うけれど、これとて1回もない。

たった一度あったのは、ポカラ・ジョムソンだけだ。季節外れの大雪だったけれど、それとてヘリコプターを交渉したら、すぐにとんだ。

だから、どうにかなると思っていた。

トランプを買って遊びだしたメンバー、昼寝を決め込んだメンバー、いろいろいたけれど、夕方に何とかとんだ。

正直、あんな時間になってから有視界飛行を繰り返すのにはちょっぴりどきっとしたけれど、ともかく飛べてよかった。

ルクラの空港は、滑走路がすっかり舗装されていて驚いた。おのぼりさんのようなことを言うけれど、そしてそんなこととっくに知っていたけれど、やっぱり驚いた。

田部井さんがよく、「昔は、飛行機が来るときには、村の人がニワトリを追い払っていたものよ」と言うけれど、ホントその通りだった。

私は、初めてのヒマラヤ登山を終えたあと、かなっぷとクリと3人で、滑走路のすぐわきにあった草地にテントを張っていた。私たちはこのあと、クーンブを旅する予定だったけれど、その前に、かなっぷと私の卒業試験の結果を受け取りたかったからだ。

私は、まあ落ちるってことはないと思っていたけれど、かなっぷは正直あやしかったはずだ。だから、もし彼は落ちていたら、そのまま日本に帰る予定だったのだ、就職も決まっていたし。

卒業試験の結果は、かなっぷの双子の兄が大学に見に行ってくれ、それをウチの母に伝え、母がカトマンズの旅行会社の大河原さんへfaxしてくれ、そして大河原さんが飛行機の載せてくれるという手筈だった。

いったい、どうやって乗ってくるのかと思っていたら、ジュラルミンのケースに入って、さぞかし大切そうに運ばれてきたのだった。

しかし、いまとなってはそんな草地もなければ、第一、ココがルクラとは思えないほどバッテイが立ち並んでいた。まるでナムチェバザールぐらいの規模だといっても大げさではない。

今日からお世話になる、ローカルスタッフの方々と対面。

早速、メンバーの数人たちと、キッチンにお邪魔して、どんな風に料理を作るのか見学させてもらった。手伝っていいよ、と言ってくれたので、少しお邪魔にならないように遊ばせてもらった。

私はこうやってキッチンに入るのが大好きで、いつもこうやって地元の料理を覚えてきた(けれど、今回はほとんど日本風料理)。

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2011年4月29日 (金)

Nepla Tour Day2 リンジンの店へ、紘子さん、ヨゲンドラと再会

カトマンズのトリブバン空港に到着。

ツアー旅行の多くは、すでに滞在ビザを取得してあるのだけれど、私たちは空港で取得することになった。田部井さんのアイディアで、入国にもこういったひとつひとつの作業が必要だってことを、ネパール初体験者たちに知ってもらおうということだったのだ。
そう、今回の一行、田部井さんと私を除く全員が、ネパールの地を踏むのが初めての経験だという。

空港から近いホテルを選ぼうということで、お世話になったのは、ニューバンネスワールにあるサンセットビュー・ホテルだった。私のこれまでの数えられないほどのネパール滞在において、最もお世話になっている方、紘子・トラチャンが経営しているホテルである。

到着して間もなく向かったのが、生地問屋街。ここで、サリーやパンジャビードレスを作るメンバーが数人。

その後は、そのまま歩いてタメルへ向かった。

初めてネパールを訪れた1991年、タメルは人と牛しかいなかったと思うけれど、いまでは車もバイクもわんさか通っている。

象徴的だったのは、電信柱にまるでクマ棚のように巻きついた電線たち。まるで混沌としたネパールそのものを表しているよう(写真)

タメルでのお買い物の最後、ほんの20分ほど自由時間ができた。

私もどこかのグループについて行こうと思いながらも、問い合わせに応じていたら、あっという間にみなさんが散っていった。

この機を逃したら絶対に会えない…と思い、私は私で自由時間を使わせてもらうことにした。

集合場所から歩いて1分もかからないところにある、リンジンの店へ急いだ。

先ほど、通り過ぎたばかりだ。

カトマンズにもクーンブにも親しい友人は多く住んでいるけれど、こうやってツアーで来ている以上、どうやってもその彼らと会えないことは承知していたけれど、リンジンの行方だけはどうしても気になっていたのだ。

ネパールが隣国中国の影響を大きく受けるようになり変わり始めたころから、リンジンとの連絡が途絶えていたからだ。

リンジンの店は、登山道具を売っている。いつものように店の棚にはひと目もくれず通り過ぎ、いちばん奥の部屋へ行った。

「リンジン、いますか?」目に飛び込んだのは、リンジンとそっくりな顔をした息子だった。そうか、こんなに大きくなったのか、と。

息子は少し驚きながらも、「父だったら……」と口ごもりながら、部屋に掲げられていた写真に目をやった。リンジンが写っている写真には真っ白なカタがかけられていた。今どき流行しているクリーム色やらいろんな鮮やかなカラー色のものではない、純白の正統的なカタだった。

「いつ、亡くなったの?」それからは、息子と話し込んだ。時間が気になりながらも、彼は、リンジンがいつも私にしてくれたように、「コーヒーとセブンアップ、どっちがいい?」と聞き、「セブンアップ」と応えると、店のスタッフがどこからか買ってきてくれ、コップについでくれるのだった。

最初は気丈に話していたけれど、だんだん涙があふれてきた。とうとう詳細を聞くことはできなかったけれど、さぞかし晩年、チベット人の彼にとってとても暮らしづらい街だったろうに。メールにはいつも控えめな文章が並んでいたことを思い出した。「いろんなことがあるけれど、まずまあまあなんとか家族はやっています」と。

私がカトマンズに立ち寄るのはほんの数日であることがほとんどだった。それから山へ行ったり、ダージリンやシッキムへ行ったり。けれど必ず、リンジンの店には立ち寄っていた。いろんなことでお世話になっていたのだった。私の旅をさせてくれていた。

忘れられないのは、お手製のストーブをバイクの後ろに括り付けて、ゴダワリで借りた家までやってきてくれたことだった。家に暖房器具が一切なく寒くて仕方ないことを、きっとこぼしたのだろう、忘れてしまったけれど。

彼は、ドラム缶を改造して、ストーブを作って持ってきてくれた。

けれど、それを部屋のなかで使おうものならば……おそらく一酸化炭素中毒になること間違いナシ、ぐらいの勢いで部屋中がモクモクとし始めたのだった。まあ、あんな隙間風だらけのネパールの家だったら、そんな心配もなかったのかもしれないけれど。

仕方なく(と言っては申し訳ないけれど)、そのストーブは、バルコニー(つまり野外)で使うことにしたのだった。観察するに、おそらく……炭を入れる口の位置と、煙突を取り付けた位置関係がよくないというか…煙が煙突に上がっていかず、ともかくストーブの口からモクモクと出てくるのだった。

なかなかあの煙には参ったけれど、♪煙が目に染みる ではないけれど、リンジンの優しさが目に染みて、泣けてきたのだった。

だから、私はリンジンが大好きだったのだ。

夜、ヨゲンドラ達がパーティを開いてくれた。

今年のネパール観光年について、観光局から指名されて仕切りをしているヨゲンドラのことを、実は以前から知っていた。紘子さんの親戚であるし、それに通信社に勤務していたヨゲンドラのことは、おそらく多くの日本の登山隊が知っているはずだ。

 昔、ヨゲンドラと、雪男の話をして、それをサンタクロースにたとえたことがあったけれど、そんなことを彼は覚えているだろうか。

 ヨゲンドラの手配により、エベレストサミッターのネパール山ガールズ達が私たちを出迎えてくれた。そして、すでに彼ら彼女らの間には「Yama Girls」という言葉は定着していた。

パーティ後サンセットに戻ると、紘子さんが待っていてくれた。

8年ぶりぐらいだ。まったくお元気そうで、よかった。紘子さんの優しさとかたくましさとかに、私がどれだけこの地で救われたか、それはとても言葉にできない。

通常、団体旅行客を受け入れないサンセットだと聞いていたけれど、私がリクエストしたら、予約が通った。「たまたま部屋が開いていたのよ」と言ってくれたけれど、果たしてGW初日にサンセットの部屋が空いているなんてこと、あるのだろうか、と思った。

サンセットから見る、カトマンズの夜景は、相変わらずきれいだった。あの混沌とした街も、こうやって少し距離を置くと、なんとか見渡せることができるのだ。

しかしこの街の灯もどんどん変わっている。オレンジ色の淡い色がぼーっと暗闇に浮かぶような街だったのだけれど、いまでは真っ白な色の光りばかりだ。ネオンも目立つ。

*この日記は、MJリンクのネパールトレッキングのものですが、私個人の行動や感想を書いています。オフィシャルはMJリンクブログに書きました。

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2011年4月28日 (木)

Nepal tour Day1 NRT→BKK

朝まで徹夜で原稿書き。
その後、パッキング。
昼過ぎに自宅を出るつもりが、成田集合時間を1時間も間違えていた(汗)。
本当は、集合時間の2時間ほど前に行き、涼しい顔をして参加の皆さんをお迎えするつもりが、、、到着は40分前だった。

西遊旅行の添乗員である津久井さんとお会いし、参加者の20人とも合流。
今日から、MJリンクのネパールトレッキングが始まる。

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でバンコクまで。
飛行機に乗り、ワインを2杯飲んで、機内食を食べて、爆睡。

バンコクでは、現地の女性ガイドの方がお迎えくださった。
殆ど話ができずに残念だったけれど、バンコクで長く生活をしているのだろうなあという雰囲気のある方だった。

成田組がホテルに着いたのは夜遅く。
関空組は早くに着いているので、5人にご挨拶。

その後、部屋に入って、シャワーを浴びて、再び夢の中へ。

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2011年4月27日 (水)

新入部員3人

本当に仕事が逼迫しているというか、なんでこんなに仕事が多いのだろう、だというのになぜ私は稼げないのだろう。
という大きな深刻な問題を抱えながら、今日もヒーヒー言っていた。当然明日からのネパールのパッキングなどしていない。

このような状況ではさらに自分の首を絞めることになるのは火を見るより明らかなのだけれど、夜は、母校大学山岳部のコーチ会へ。
昨年冬に入部した能代谷くんに続いて、3人の入部者が現れたからだ。
顔合わせ、自己紹介、今後の計画など。

卒業後、ほとんどずっと山岳部に関わってきたけれど、もうここで、ほんとうは次の人にバトンタッチしたい。

新入部員3人と、能代谷くんのやりたいこととかいろいろ聞く。
途中からかなっぷも合流。

夜遅く、仕事場に戻る。

2011年4月26日 (火)

『Hutte』Vol.3

いったいどうやって1日を過ごしたのか覚えていないほど、怒涛の時間が流れた。
カンヅメになって、ほとんど寝ずに、ともかく書き続けた。

山と溪谷社から『Hutte』の3号が届いた。
「山道具虎の巻」コーナーに登場。
編集者にジップロックをあれこれ多用する話をしたところ、採用された模様。
といっても、、、実は、絶対にジップロックを使わない場面もある。
開閉が多いモノは、ジップロックだと消耗が激しいし、また手袋をしていてもすっと開けられるわけではないので、グラナイトギアのチャック付きバッグを使っていたりする。

今回は、地形図を入れるのに使う、、、という話だったのだけれど、昭文社などの地図は防水性があるので、入れない。
地形図は、該当部分が表に出るように折って、ジップロックに入れることが多い。
とくに雨の日と雪山。

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2011年4月25日 (月)

再び打ち合わせ

ふたたびH出版へ。
今日は番組制作会社のスタッフも一緒にミーティング。
そして、おそらく15年ぶりぐらいにお会いする、登山ガイドのHさんも加わった。

帰路、東急ハンズによって、ネパールトレッキングで必要ないろんな文房具の買い出し。
夜、帰宅。

2011年4月24日 (日)

雪が残る編笠山へ

朝起きると、甲斐駒ケ岳の雄姿が。
昨日の参加者の中で数人の方が、この宿に泊まっている。
きっと、彼女らもこの山姿に見とれるに違いない。

菅ちゃんと私は、みんなが起きるちょっと前に、宿を出た。
わがアカチーム(写真)は、今日、編笠山から西岳に抜けてくるのだ。

編笠山の途中から雪が出てきたけれど、どうしてもアイゼンをつけたくなく、やぶをこいだり、あれやこれやの手を使って、やっと山頂直下の岩場へ。
ゴロゴロの大きな岩を越えていき、山頂に着くと、向こうに権現岳、赤岳、阿弥陀岳などが見えた。もう少し歩くと横岳や硫黄岳も見えた。
雪がべっとりとついていて、4月とは思えない。

反対側は、甲斐駒ケ岳や北岳など。
まったくいい眺めだ。昨日の荒天がうそのよう。

西岳をまわって、また展望を楽しんでから下山。
予想通り、下山でもあれこれ面倒な雪と泥と岩の斜面になってきた。
意地でも一度脱いだアイゼンは装着したくなく(というか、よけいな斜面で使いたくなく)、またもやあれやこれやの手を使いながら下山。

最後の林道ではなぜか雪が舞ってきた。

ネパール前で準備が忙しかったり、仕事が立て込んでいたりで、菅ちゃんからも「無理しないで、また機会はあるから」と言われていたけれど、無理して登ってよかった。


帰宅後、仙台出張中の夫と電話がつながった。
仙台のスタッフたちと、営業開始の準備をするための出張。
わざわざ東京メンバーもやってくるからと、仙台スタッフのひとりであり、私の大好きな友人であるふみぽんは、出張メンバーたちのために温泉宿を準備してくれたという。
短い出張といえども、被災地での作業は心身ともにストレスがたまるから、温泉で疲れを癒してほしいという彼女の思いやり。
そして、客足が減ったという地元の温泉宿にもお金が落ちるのだから、一石二鳥だ。

今日は、仙台スタッフのふみぽんと大橋くん夫妻も、一緒に泊まっているのだという。
震災後、初めて話をした。
これまでメールで話したり、夫経由の伝言はなんどかあったけれど。

声を聞いたら涙が出てきて、一番言いたかったことが言えなかった。
「生きていてくれて、ありがとう」「よくがんばったね。がんばって、港から走って逃げたね」って。

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2011年4月23日 (土)

MJリンク@飯盛山

MJリンクで、飯盛山へ。
東京を出るときは大雨で、数人の参加者から「今日は本当にやるのですか?」と携帯メールをいただいた。

八王子で、サポーターの大久保さんがあずさに乗ってきた。
ふたりでひとしきり、いろんなおしゃべり。

小淵沢に降りたら、それほど降っていないかった。空は暗いけれど。
飯盛山でも大して降られず。
とくに風下の斜面をトラバースする部分が多かったので、助かった。
山頂の風は強く、すぐに下山。

そのまま神代桜を見たり、アルソア本社のホールでヨガをしたり(シャバーサナではもちろん爆睡)。
最後は、癒しの杜でマクロビオティックの夕食をいただいた。
旬の山菜天ぷらもおいしかった。

今回のMJリンクは、いつもと装いが違い、「交流」を目的にして大人数募集したもの。
賑やかだった。

葉山以来久しぶりに会ったGさんは、震災後とても大変な思いをされたのに、姿を見せてくれてほっとした。
今回もまた、装備をレンタルしてきたのだという。落ち着いたら、また山に登りたくなったら、買うことになるようだ。

なんと09年の谷川岳以来のYさんも。私が覚えていたら驚いていたけれど、当然ですっ!

ほかには初参加の方も多数いらっしゃった。
賑やかな会になった。

みんなを小淵沢駅まで見送ったあと、田部井さんとサポーターの菅ちゃんと癒しの杜へ戻った。
事後の事務作業などをしたあと、田部井さんと合流して、しばしミーティング。
その後、部屋に戻って、一杯やって、ベッドへ倒れこんだ。

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2011年4月22日 (金)

H出版へ打ち合わせ

久し振りのジョギング。
やっぱり気持ちがよい。

自慢のアスリート体質に影が落ちてきた夫は(自堕落な月日を過ごしたために)、体重計の前に記録表を貼り出した。
これから毎朝、体重と体脂肪を記録するのだそうだ。

夕方から、H出版へ。夏に出版する予定の本の打ち合わせ。
ここの編集部との仕事は1年ぶりだけれど、編集者のOさんと仕事をご一緒するのは2年ぶり。
それと、今回初顔合わせになった編集者のHさん。彼女とこれから夏まで、一緒にがんばることになる。

夜は、明日のMJリンクの準備。
パッキングと名札づくりと、そのほか。

2011年4月21日 (木)

御宿の海

朝イチで海へ。
海に入っているときに地震が起き、津波警報が出た場合、防災無線のサイレンが鳴るのだそうだ。
ほかにも、サイレンに加えて旗を揚げるところとか、いろいろある。

御宿の場合は、サウンドスキー場か御宿台へ向かって逃げるように言われている。

車で逃げられる場合もあるだろうけれど、今日は私はアパートに車を置いてきたので、走って逃げるしかない。
そのために、いつもはあまり履かないサーフィン用のブーツを履いてきた。
これがあれば、海から上がってもそのまま走れる。

サウンドスキー場まで走るって、いったいどれほど大変なのだろう。
あの日、仙台港から走って逃げた親しい友人のことを考えたりした。

それよりも何よりも、速やかに海から上がることが、私の場合課題である。
だから、海のコンディションを見ながら、速やかに上がれないようであれば、今日はアウトには出まいと思っていた。

久し振りだし最初はスープで様子を見ながら、その後アウトへ。
サイズは腰、白サンカクのいい波だった。
たくさん波にもまれて、十分なぐらい波待ちもして、ぼーっとして。
それから、大好きな砂遊びもたくさんして、気持ちがよかった。

ある友人が言っていたけれど、海には浄化作用があり、山には(何かが)インプットされる作用があるのだそうだ。
だから、海で浄化したあとに、山に登ったほうがよいと。
今の私には、十分すぎるほどの、浄化作用が、今日の御宿の海にはあった。

こんな久しぶりに来たのに、ちゃんとトミーさんにも会えたので、避難経路についても確認できた。

昼は、もちろん勝浦のあまからやへ。
ここも地震後初めてなので、互いの近況報告。

午後から雨。
2ラウンドやる元気はなく、原稿書きに。

2011年4月20日 (水)

御宿へ

とにもかくにも、心身が疲れ果て、なんとか起床。

早朝から原稿書き。
その後、都内のいくつかの小中学校や教育委員会に電話。
サバイバルナイト2の会場を探しているのだ。
どこも、実現不可能だったけれど、丁寧に対応してくれて感謝。

昼過ぎ、自宅を出て夫とふたりで御宿へ。
震災後初めて行く。
本当はもっと早く行きたかったのだけれど、ちょうど震災のころから、私たちの周りではいろんなことが続き、全く身動きが取れなくなっていた。

スーパーでお刺身を買って、アパートへ。
部屋の中は被害ナシ。

私は原稿書きの続き。

それから温泉に入って、少しだけ生き返った。

2011年4月18日 (月)

TNFで打ち合わせ

今日、夫が着て出かけて行ったのは、私がバハ・カリフォルニアで土産に買ってきたパーカーだった。
あの天国のようなところ、また行くことができるだろうか。

日中は自宅で机に向かって仕事。ただただ、もくもくとやり続けるしかない。
夕方から、ザ・ノース・フェイスのプレスルームへ行き、ゆっこちゃんやほかのメンバー達と打ち合わせ。

新しい企画。何ができるか楽しみ。

帰路、夫から携帯電話に連絡があり、帰宅間近だということ。
久し振りに、早い時間に自宅で夕食が食べられた。

2011年4月17日 (日)

大磯の里山へ

昼過ぎ、まさみんと大磯駅にて待ち合わせ。
昨日の疲れが残っていて、車中、私はぐっすり寝入ってしまった。

サバイバルナイト1は、何とかみなさんのご協力の上、終わったけれど、私たちが当初やろうとしていたことは、まだ終わっていなかった。
実際に、着の身着のままでオーバーナイトすることだった。

野外で寝るにあたって、自分の身を守る方法、体力をセーブする方法をレクチャーし、みんなでビバークするという企画だ。
ただ単に、野外で着の身着のまま寝るだけでは、意味はない。
そんなこと、東京みたいな気候もそれほど厳しくなく平和ボケした都市に住んでいたら、やったことある人は山のようにいるはずだ。
つまり、飲んだ後終電を逃し、駅で寝たり、酔っ払って木の植え込みとか公園で寝たりとか。

むろん私たちがやりたいことは、それとは違うことだった。

しかし、会場が問題となっていた。
都心の大型公園は、被災した際に実際の避難所となることが多いので、そういう場でやると良いのではないかと考えた。
身近だからだ。しかし、公園は夜間は閉鎖になり、私たちのようなどこの馬の骨ともわからん者には貸し出してなんかくれない。

先日、まさみんが偶然に知り合った中里さんという方が、大磯にある彼の土地を貸し出してくれると提案くださったので、ふたりでおじゃましに行った。
中里さんとまさみんが知り合うきっかけとなった、リッキーさんもやってきてくれた。
リッキーさんは、まさみんがずっと前にラダックのレーへ向かうバスの中で知り合ったというのだから、これはなんとも素敵なご縁である。

中里さんが所有するハウススタジオを見学させてもらったあと、大磯の里山を歩くことになった。
スタート地点となった神揃山はとてもとても素敵なところだった。桜が散り際であり、地元のおじさんたちがほのぼのと花見を楽しんでいた。
神揃山…なんて不思議で素敵な名前なのかと思ったら、この地域に住む5人の神様が、毎年5月5日になると、ここにやってくるという土地なのだそうだ。
高台に囲まれた空間で、清らかな空気が流れていた。こんな清々しい場所はそうないだろうと、私たちはこの場所をとても気に入った。

ここでサバイバルナイトをするのであれば、こういう配置で行なおう、本部はココだねなどという具体的会話もした。
しかしどうしてもクリアできない点は、リスクマネジメントに関するあるひとつの点だった。
やっぱり、、、なかなかこんな企画ができる場所はないのだな、とつくづく思ったのだった。

その後、日本では珍しいほど大きな松ぼっくりが落ちている林や、夏みかんの畑を通り抜け、里山を歩いて、時にはやぶ漕ぎもして、牛舎のある方へと私たちは登ったり下ったり、歩いて行った。
グルンド(グリンデルバルドの下の村)に滞在していたとき、毎朝、滞在先のパパが所有する牛舎に登って行った。ここに住んでいる牛たちは、毎朝牧草地に放たれ、夕方戻ってくるのだ。おいしい牛乳が搾れて、それでパパたちはチーズを作っていた。

今日の牛舎にも懐かしいほど乳牛がたくさんいた。
パパの牛舎に通い始めたころは、大きな牛をなでたり、近づくのが怖かったけれど、今日は牛たちにもっと近づきたいなと思ったし、あの牛舎で働いていた若者たちはどうしているのだろうかって思い出した。

最後に中里さんが所有する山の中にある土地も見せていただいた。

夕刻、大磯駅までふたりで歩き、東京へ。
サバイバルナイト2のミーティングをして、別れた。

2011年4月16日 (土)

サバイバルナイト1開催

サバイバルナイト1開催。
ちっともナイトではく、昼間に原宿にあるギャラリーで行なった。
ゲストスピーカーとして出演くださったのは、山岳ガイドであり山岳スノーボーダーである加藤直之さんと、ガーデンデザイナーの長濱香代子さん。

加藤さんが語ったものの根底にあるのは、アラスカでの経験だと思っている。
彼は、日本の大学を卒業したあと、フェアバンクスにあるアラスカ大学に留学した。

結構謎に包まれた人というか、日本にいなかった時期が長いからか、日本の雑誌にはほとんど登場せずにやってきたクライマーであり山岳スノーボーダーなのだけれど、私は2004年ごろだったかスティーブ・ハウスが来日したときにお会いしている。インタビューの通訳をやってくれたからだ。
その後、彼が北米在住中に注力したもののひとつであるウィルダネス・ファーストエイドの世界で再会したり、少しずつ彼が登ってきたことや滑ってきたことを知り、私は愕然とした。
山のコトを書いているとか言っておきながら、加藤さんを知らなかったなんて、なんて手落ちだったのだろうと。

アラスカでのクライミングのほとんどは、日本は言うまでもなくアメリカですら知られてないと、加藤さんは以前言っていた。
猛者たちがわんさかいて、あのアラスカの気の遠くなるようなウィルダネスの中で、過酷な自然環境の中で、ものすごくシリアスなクライミングが行われているのだそうだ。
そのほとんどは、アラスカクライマーたちの間ではなんとなく知っていても、北米のクライミング雑誌に出ることすらないと。

私には到底想像できていないであろうそんなクライミングはもちろんのこと、もうひとつ私が興味を持ったのは、加藤さんがキャンパスから片道1時間(MTBにて)かかる小さなログハウスにい、ひとりで住んでいたということだ。水も電気もない。水は毎日汲みにいっていたそうだ。
夏はまだよいだろうけれど、真冬でもスパイクタイヤを履いて、大学を往復していた。

非常にまじめな優秀な大学であり、勉強もかなりハードだった。
毎週末山に出かけるのだから、フィジカルトレーニングも欠かさなかった。
さらには、MTBを毎日2時間以上こいで大学へ行き、水汲みもしなければならない。

彼はいったい、いつ寝ていたのだろう。
それよりも興味をそそったのは、その隔絶されたような大自然の中にポツンと建つ小さな小さなログハウスで、彼は毎日何を考えいたのだろう。

先日、親しい友人は私に「男性というのは、内省しない生き物だ」と語った。
むろんそれにはいきさつがあり、友人と私が最近とても苦しんでいることのあらわれでもあったのだけれど、確かに性差というものがあるのかもしれない、と私自身も思っていた。

しかし、加藤さんは間違いなく、フェアバンクスの離れにあった小さな小さな自分の家で、毎日ひとり、内省していたであろう。
人間の一生には、そういう時間が必要なのかもしれない。

だから、サバイバルする、人間が生き抜くということについて、その論理とか技術とかだけでなく、哲学を彼は考えているのではないかと、今日の話を聞いてさらに思った。


かよちゃんの話は、植物に関するもの。
物言わぬ、そして自ら動くことがほとんどできず、与えられた環境を受け入れなければならない植物が、いったいどうやって命をつないでいくのか。
私は、その様を毎日眺めているかよちゃんが、いったい何を感じ考えているのか、とても興味があった。

だから、ヒツジの片割れであるまさみんが、「お友達のかよちゃんって、会ってみたいんだけれど。私たちのサバイバルナイトにでてくれないかな」と言ったときに、すぐにかよちゃんを、まさみんに紹介した。

人間の命のスパンとは比較にならないほど長い一生のある樹木と付き合うなかで、かよちゃんは忍耐を学んだのかもしれない。
人生を受け入れることを、身につけたのかもしれない。

サバイバルナイト1のオフィシャル報告は、Hituji Projectのブログにあります。
以上は、私の個人的感想。


サバイバルナイト後、加藤さん、かよちゃん、そして写真を撮ってくれたトキちゃん、西麻布仲間の彼とまさみんの6人で、打ち上げ。
深夜、帰宅。

お集まりいただいた皆さま、心からありがとうございました。

そして2枚目の写真は、チャリティバザー用にお持ちいただいた品々の一部です。
宝物放出してくださった参加者の方々、
加藤さん、かよちゃん、かわいいグリーンやお茶を持ってきてくれたかよちゃん、
10個もの手作りバッグやキノコワッペンを作ってくれた、東北の山を愛するイラストレーターの子安さん、
匿名希望ということでかわいらしいがまぐちポーチを何と60個もご寄附くださった、某大企業の方(登山をする方々、ほとんどすべての方々がお世話になっている会社です)、心から、ありがとうございました。

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2011年4月15日 (金)

オーストリアから届いたツァンパ

オーストリア在住の京子さんから、「澄子さん、ツァンパお好きでしょう。とてもおいしい粉があるの。送るわ」と連絡いただいたのは、少し前。
彼女は本当に心のこもった人で、彼女からの便りは、いつも私の心を穏やかにしてくれる。

オーストリアにはチベット人も多く、ツァンパの粉はいろんなところで手に入るそうだ。
オーガニックストアにもおいしいモノがあるけれど、今回送ってくれたこれは、彼女のお知り合いが自分の畑で作り、自分で炒ったものであり、味は特上だと。

ツァンパとは、チベット人の主食であり、大麦の一種の種子を脱穀、乾煎りし粉状にしたもの。
大概、お湯でといてヤクのギー(バター)を入れて食べる。
唐辛子を付ける地方もあるし、黒砂糖も混ぜて菓子にするところもある。

京子さんが送ってくれたツァンパは、本当に本当においしかった。
しかし、「ツァンパお好きでしょう」とは、普通人には尋ねないのでは?ちょっと笑っちゃった。
けれど私は、本当にツァンパが好きなので、嬉しい。
さらには、私たちの共通の友人であるたーさんとやっさん夫妻について、「彼らも好きなはずだから、一袋渡してくれる?」と。

彼らとはいくつか旅をともにしたことがあり、四川省のチベット文化圏の旅や登山をしたこともあった。
確かになんでも食べる彼らだけれど(私も同じ)、ツァンパを好きというだろうか?
と……半信半疑で電話したところ、「好きだよ」とあっさり。

京子さんから送られてきた封筒には素敵な切手がたくさん貼ってあった。
山の絵は、南チロルのガイスラー山群であり、京子さんも大好きな山だそう。
いまはイタリア領になってしまったけれど、オーストリア人はいまでもクリスマス用の切手に使うほど愛着のある山々なのだそう。

こんな風に切手を貼ってくれるところが、京子さんのまごころ。

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2011年4月14日 (木)

肺活量検査

肺活量検査をしなければならず、夕方、近所の病院へ。
今どきの肺活量検査というのはオモシロイ。
水を張った銀の箱の検査機しか知らない世代にとっては、オモシロかった。

結果が出て、循環器ドクターの部屋へ行くと、彼は一度も私の顔を見ず、検査結果を説明していた。
その口調は、患者にむかってため口であり、そして本当に最後の最後まで、一度も私の顔を見なかった。

よっぽど私に見せられない顔だったのか、あるいは実はどこかですれ違った知人で、自分と気づかれたくなかったのか(名前は知らない人だったけれど)。
それともやっぱり常識的な礼儀もなく、人とコミュニケーションが取れない人なのか。

ともかく、二度とこの病院へ行くのはやめよう。
近所の総合病院なので、今後私が循環器系で救急車に乗る羽目になった時は断固拒否しなければならない。

2011年4月13日 (水)

朝見た道端の花

朝、Sweepyと香代ちゃんに見送られて、南青山のオフィスを出る。
誇らしいのは、こういう品格があり、責任感のある大人の女性が友だちであるということだ。
今回も、ずいぶん勇気づけられたし、励まされた。

思うに、彼女のように強い人、一人でもやっていけるだろう人、自立している人というのは、そういう人であればあるほど、繊細なのだと思う。
世の人々は、そういうことに気づいていないな。オロカモノメ。

記録しておくべき今日の名言は、「精神が自由なオンナはもてない」。

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2011年4月12日 (火)

Hitsujiの打ち合わせ

今週末行なうHitsuji Projectの第一弾イベント「サバイバルナイト」について、今晩は打ち合わせ。
Hitsuji
のかたわれ、まさみんと、ゲストスピーカーの王子(お城に住んでいないワイルドな王子)と3人で、香代ちゃんのオフィス近くのtete koboに集まった。
香代ちゃんは現場の仕事が長引き遅れてくるとのこと。
tete
のお兄さんに会うのは久しぶり。
彼のちょっと荒削りだけれど宝石の原石のように光る料理が好き。
そして、teteのお兄さんも、王子や香代ちゃんのように、とことんやる人だってところが面白い。

さきに3人で話を進めていると、途中から香代ちゃん登場。
私は3人と面識があるけれど、香代ちゃんは全員と初めて会うのであったり。けれどそんな雰囲気もなく、話はあちこちへと飛び飛び、これがいったい打ち合わせなのかどうかわからなくなってきたけれど、ともかく夜中近くまで話し込んだ。


終電ギリギリで王子が「で、みなさんこれからどうするんですか?」と言ったけれど、私は「今日は香代ちゃんとここでまだ飲むの」と言って、王子とまさみんをほったらかして香代ちゃんと西麻布へと消えていった。

西麻布という町は不思議なところで、緩いつながりのあるいいコミュニティができていて、独特の間合いがある。
いまは、C-ENという活動をしていて、各飲食店が被災地の食材を使った料理や酒を積極的に出しているのだそうだ。
3店舗のスタンプを集めると、プレゼントがもらえるという仕組み。

最初に私たちは、ミカさんのところへ行った。私は御酢を買って一つ目のスタンプゲット。
2軒目のバーでは、宮城峡というおいしいウィスキーを2杯飲んだ。

最後のお店はその名も、「after sunset」。ここで梅酒を飲んで3つ目のスタンプまでたどり着いた。
このお店のプレゼントはテキーラということだけれど、それは極めて危険なので、梅酒にまけてもらった。

香代ちゃんと先日の長電話以来、続きのいろんなお互いの話をしていたらあっという間に夜中の3時にになった。
人間は内省し自分と向き合わなければならない、パートナーとも向き合わなければならない。
それはときにとてもつらいことだけれど、心を強くもち内省しなければならないというような話をしていた。

そういえば、土曜日に王子が話してくれるであろうフェアバンクスでの山小屋生活の5年間は、おそらく隔絶された世界で自分と内省せざるを得ない日々だったのではないかと思う。

香代ちゃんと私は、眠くなって香代ちゃんのオフィスへ帰った。
久し振りにSweepyにも会って、シュラフにもぐりこんだ。

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2011年4月11日 (月)

福島の大葉のおにぎり

明日から夫は、1泊2日でハイキングとカヌーに行くのだそうだ。
入社1~2年目の社員を、先輩社員が連れて行くのだそうだ。
いまどきは、アウトドアアクティビティの経験があまりなくても、入社してくる人もいるし、それほど貪欲ではないことも、ほかの古い社員たちから聞いたことがある。

20代のころなんて体力が有り余っているのだから、毎週金曜日の夜から車を走らせて山へ行き、月曜の早朝に何とか自宅までたどり着き、それから会社に行ったものだ。
いまどきの若い人たちは、それでは疲れてしまうから週末のうちのどちらか1日を遊びに使うとしたら、もう1日は家で休んでいる人も多いそうだ。

お金を計画的に使わなかったことは反省すべき点だけれど、ボーナスも何もかも、あれこれ山の道具に消えていったけれど、そういう無計画なことも、若者たちはしないそうだ。
利巧だな。


先日ふくしま市場で買った大葉を使って、明日のハイキングのランチ用おにぎり。

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2011年4月10日 (日)

都知事選投票の日

都知事選投票は、朝イチ。
投票所である近所の小学校へ行く道すがら、夫とあれこれ。
「で、誰に入れるの?」。
なぜか私の育った家庭は、誰に投票したか口にしない家庭だった。
父と投票所へ行くことが多かったけれど(子どもの私は、風船をもらうため)、幼心ながら「誰に投票したの?」と聞いても、「それは人には言わないものなんだ」と言っていた。
あれは、怪しいな。

自称ビジネスマンの夫(ビジネスマンになりきれているかどうかは別として、職業はそうであろう)の見解を聞き、私の最終結論を述べ、そして投票箱へ。

石原さんが再選することは、このような時世で選挙運動をしなければならない状態を考えると、わかりきっていたことなのかもしれない。
その筋のプロたち(つまり石原さんのブレイン)には、簡単にわかることだろうから、「もう1回出ておきましょうよ、いまなら勝てますよ」となって急きょ、出馬を決めたのだろうか。

石原さんがほとんど選挙活動をせず、震災に関する知事業務に専念していたことを、テレビは評価していたけれど、それは当然のことでもある。
一方で、わたなべ美樹さんが、立候補者たちに出演依頼があったテレビ討論会は、すべて石原さんが出演を断り実現されなかったことが残念だったと言っていた。
それもまったくその通りで、都民たちは、立候補者の声を聞く機会があまりに少なかった。
マニフェストを読むことはできても、ライブで意見交換をするような討論会があれば、もっとそれぞれの立場が際立ったのではないかと思うし、立候補者たちはそれを怠ってはならないのだと思う。

フジテレビで宮根さんが、途中から東国原さんのことを、「東さん」と呼び始め、当人は苦笑いしていたが、これはとても失礼ではないだろうか。
東国原さんを、都知事選立候補者ではなく芸人としてしか見ていないように誤解されかねない。

そもそもこのような選挙結果になったことは、ひとつには、リーダー不在であることなのかもしれない。
世界有数の大都市東京をリードできるようなリーダーが、育っていない、それは日本の教育や社会そのものにも問題はあるだろう。

夫は、自分の周辺の若者たちの投票率の少なさをぼやいていた。

なんてことを、夜、東北の食卓を前にテレビを見ながら、あれこれ考えたり、つぶやいたり。
本日の東北の食卓は、
福島の塩サバ
宮城の海苔を使ったサラダ
福島のこごみ
宮城の浦霞

いや旨い。東北の食文化は本当に素晴らしいのだ。

2011年4月 9日 (土)

ふくしまアンテナショップ

午前中、野暮用。

午後、ジョギングとクライミング。
それから、近所にある福島のアンテナショップへ。
都内には2か所あり、ひとつは八重洲の観光協会と隣接しているが、もうひとつは我が家の近く。
それは何かの縁かな、といつも思っている。
福島は、母方の祖母が生まれ育った地であり、母は幼いころ福島に疎開していた時期がある。
親戚が住んでいて、あまり頻繁に会うことはないのだけれど、私にとっては心の底で信頼している親戚であるのだ。

一昨年、福島県庁で記者会見をさせてもらった時に、県庁職員の方と、近所のアンテナショップについて話をしたことがあった。
ちょうど、会津地方の山の仕事が続いており、母や祖母だけでなく、私自身も福島と縁ができ始めていたころだったから、「本当にこれはいい縁ですね」など話していた。

ということもあり、このアンテナショップは、我が家の日常的食品を買う際、ヘビーローテーションに組み込まれている。
主に、乳製品(牛乳、ヨーグルト)、野菜、豆腐類(豆腐や厚揚げなど)、酒を買っていた。

今日、夫とアンテナショップへ行ってみると、テレビ取材が来ており、福島からやってきたという販売員の人数も多く、品数も多かった。
その割に、お客の入りはいつも程度のようにも見えたが。

私は、柳津の粟饅頭を見つけて大喜びし、レジに持っていくと、「ああ、粟饅頭買ってくれるんですね、ありがとうございます」と言っていた。
彼は、柳津の人なのだろうか?
とっても美味しかった。

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2011年4月 8日 (金)

そしてまた原稿書き

またまた原稿書き。
この1ヶ月の遅れを取り戻さなければいけない。

夜、斉藤和義さんのライブがユーストで中継されるというので、原稿を書きながら聴こうとログインしてみた。
ところが、とても原稿を書きながら聴けるようなものではなかった。
私のパソコンでは、肝心のところでフリーズしてまったく歌が聴けなかったけれど、その後にyou-tubeにアップされたものを聴くことができた。
同世代のせっちゃんの歌は、昔からよく聴いていたけれど、こんなにも覚悟のある人だってことを再認識。

それぞれがそれぞれの立場で責任と覚悟をもって仕事をしており、表現者は自分の言葉や手段で表現をしているんだな。
「ずっと好きだったんだぜ」という大切なフレーズを、「ずっとくそだったんだぜ」と塗り替えなければならなかった本人には、苦悩もあったのでは。

2011年4月 7日 (木)

今日も原稿書き

今日も引き続き、原稿書き。

今日の明るいニュースは、昨日緊急来日したフランスのジェーン・バーキンらのこと。
あんな風にかっこよく歳を重ねていける女性は本当に素敵。
あんなかっこいい大人の女性になりたい。

かっこいい理由は、責任感があり、自立して自由な精神をもっているからだろうか。

週末の都知事選はどうなるのかな?
cafeglobe
という2040代の働く女性が主たる読者と思われるwebサイトの投票ですら、石原都知事が1位だった。

2011年4月 6日 (水)

貫徹明け

とうとう貫徹。
この年でやるとお肌に悪いとかそういうレベルではなく、寿命が縮まるような思いすらする。
だというのに、ここ数日のうちに私の同世代友人たちは、みな貫徹していた・・・・・・。
いったい、みんなどーしちゃったんだ。仕事が忙しいようだ。

午前中に原稿を送って、昼前までにラフや写真や表などを送る。
それから、次の仕事にとりかかる。

夕方、昼寝。

夜、出張帰りの夫が買ってきたワッフルを食べる。
いつも、大阪出張の帰りの土産について、我が家では議論になる。
大概一緒に帰ってくるイシバシくんが、奥さまに買っていく土産は実に気が利いているのだ。
というか、元フライトアテンダントである奥さまが、新大阪の新幹線駅に売っているおいしい食べ物をよく知っているようで、イシバシくんに的確な指示が出せるのだろう。
我が家はその点、私の知識もあいまい、夫の審美眼も困ったもんだ、といった二重苦にある。

ともかく泥のように眠る。

2011年4月 5日 (火)

ふみぽん、ありがとう

原稿を書きたいのに、まったく進まない。
厳密な締切はまだ先なのだけれど、今回の連載は多方面に原稿チェックをしてもらわなければならないし、そのひとつは英語で会話しなければならないので(英語で会話しながら日本語の原稿を確認する・・・・・・、ハマヤン、ありがとうございます)、早めに進めなければならないのだ。
とくに初回だから、早いに越したことがない。
けれどお待たせしている多方面の方には本当に申し訳ないのだけれど、まったく進まない。

本当に世の中にあるくだらないこととは金輪際縁を切り、自分の仕事に集中したいと本音で思う今日この頃なのだけれど、いったい今日が何日で、いったい今まで自分が何をしてきたのかもわからなくなるような日が、かれこれ1ヶ月近く続いている。
こうやって日記を書かなければ、本当に何があったのかもわからなくなるような、暗いトンネル。

いくら自分の考えが確立されていても、周囲の環境もあるため、それに惑わされたり振り回されたり、灯りは遠く遠くはるかかなた。

そういえば、昨日は韓国旅行から帰ってきたという紋ちゃんと長電話したんだっけ、なんてさっき思った。


本社出張中の夫に電話すると、ふみぽんの横の机で残業している最中だった。
それを聞いただけで涙が出てきた。「ふみぽんによろしく言ってよ」と涙声の私。
本当によく逃げた、がんばって逃げた。そういう友人に「生きていてくれてありがとう」と言いたい。
家がダメになってしまったとか、いろんな苦しみがたくさんあるだろうけれど、生きていてくれたことに本当に感謝したい。

そう、人生には大切なことがたくさんあるのだ。
くだらないことに関わっている暇はない。

2011年4月 4日 (月)

MJリンクミーティング

午前中は原稿書き。

絶望的だった体調も少し上向きになったので、午後は夫とジョギング。
近所の桜並木が美しい。

夜は、タベイ企画さんにて、MJリンクミーティングがあり、田部井さん、事務の吉田さん、サポーターのまさみんと私の4人が集まった。
7
時前から始めて10時前に終わる。

帰路、まさみんとMJリンクに関する事務仕事をひとつ仕上げて、それからいくつか意見交換をして、市ヶ谷の駅で別れる。

今日のニュースは、とうとう福島第一原発で、5号機と6号機にたまっていた放射性廃液を海洋投棄し始めたという暗澹たるものだった。

被爆国である日本が、とうとう放射能汚染国になったということであるけれど、こうなる要因はもう何十年も前から積み重ねられていたわけで。
電力会社だけでなく、国策として進められてきた原子力発電は、後先のことを考えないものであり、今回のようなトラブルが起きたらとても手におえないものであったことを、電力会社も国も国民に隠し続けていたのだろうし、そして私たち国民もあんまりにも愚かだったということになる。

まったく泣けてくる。

2011年4月 3日 (日)

MJリンクネパールトレッキング 準備会

GWにMJリンクのツアーで、エベレスト街道トレッキングを予定している。
今日はこのツアーの参加者と、田部井淳子さん、旅行企画をしてくださっている西遊旅行のスタッフの方2名、それとミウラベースの許斐さん、私が集まって、準備会。

西遊旅行さんからは簡単な旅程説明を行ってもらい、その後は、参加者みんなで係り分担を決めたりした。
後半は、許斐さんによる高山病や高所順応に関する講習。
ミウラベースに勤務する許斐さんや安藤さんは、鹿屋体育大学の山本正嘉先生の教え子さん達だ。
山本先生同様、彼らも低酸素における運動について、あるいは登山という運動について、運動生理学の立場から研究されている。

私はミウラベースでお世話になったり、登山医学会でお会いしてきたのだけれど、二人ともさわやかなご夫妻。
今日は、許斐さんたちが子どもを連れて北アルプスを縦走している写真も見せてもらうことができた。

最後は、4000m相当の低酸素にした部屋に入り、体調の変化を経験したり、許斐さんから呼吸法を教わったりした。

夕方解散後、私は6人の参加者さんと一緒に、都内の登山道具店へ行き、トレッキングに必要な装備のあれこれについて、説明したり情報交換をしたり。
結局8時前に解散。

2011年4月 2日 (土)

ひつじMTGは電話

諸事情によりログインできなくなったパソコンが、やっと今日戻ってきた。
まったく自分で蒔いた種であるが、とんだ災難だった。

ただでさえ、この数週間まったく仕事が進まなかったうえに、パソコントラブルがあり、とんだ目にあった。
午後、まさみんとHitsuji Projectのことで、電話ミーティング数回。

パソコンは直ったのだし、月が替わったのだし、私は腰を据えて仕事をせねばならぬ。

2011年4月 1日 (金)

かよちゃんと電話

毎日電話ばかりしていると思われそうだけれど、今日は親友のかよちゃんと長電話になった。
ちょうどふたりとも、それぞれ全く違う性質のことであるけれど、岐路にあるからだと思う。

人生の岐路に立った時、なにかを選び、なにかを捨てるわけであるけれど、その選択を、かよちゃんのように潔く、そして自分に責任をもって行える人が友人でよかったと、今日もそんなことを考えた。

私の友人たちは、美しい。

私は、なんとか原稿を書き始めなければいけない。

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