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2005年2月

2005年2月28日 (月)

打ち合わせ

午前中から夕方まで家で仕事。
 途中、産休中のヤマケイの女性編集者から電話が入った。久しぶりにゆっくり話した。
 その後、ヤマケイへ。
 まずは、書籍編集の打合せ。6月末刊行目指して、タイトなスケジュールだ。
 その後、『山と溪谷』編集部へ。今日から数日間にわたって、校了という山場を迎えているわけだが、編集部内にもインフルエンザが蔓延していて、大変そう。

 打合せの合間に、何人かのフリーランサーと話をする。以前のこの日記の登場したハネヤン先輩にも会った。運動不足にならないよう、家で仕事をしているときは、日中にジョギング、今日のように編集部に出てきたときは東京駅までは歩いて帰るそうだ。約40分。
 モノ書き仕事は、取材以外の日はオソロシイほどの運動不足になる。しっかりと仕事をするためにも、しっかりと遊ぶためにも必要なことだなあ。私も少し考え直そう。

 仕事帰りの夫と待ち合わせて、カキフライ定食を食べて帰宅。

 山岳部仲間のライから、昨日の結婚式の写真が届く。webにアップした枚数209枚! まったくすごいなあ。どれも、新郎新婦の幸せな表情をつかんでいる。右写真は終日激写し続けたライを激写したもの。

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2005年2月27日 (日)

晴れたよき日の結婚式

大学山岳部時代の友人の結婚式だった。
 大勢の人が集まった。山岳部でいうと、広島、伊那、群馬、埼玉、東京からやってきた。久しぶりに会う人もいて、楽しいひとときだ。
 新婦の姿を見ていると、大学生だったころがつい最近のようにも思うし、随分時が流れたんだな、とも思う。
 その間に彼女にも、私にも、そして今日集まった仲間みんなにもいろんなことがあったことを、思い出した。
 披露宴は和気藹々と明るい雰囲気で、新郎新婦の人柄だと思う。
 彼女が見つけた人生に、たくさんの幸せがあるといいなあと思った。

 終わったあと、数人でお茶。さらに残った面々で、来年の山岳部の監督・コーチ体制について話し合う。日が傾いた頃に、解散となった。

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2005年2月26日 (土)

まともな一日

どうも仕事量が多すぎるよな気がしてならない。どうやって調整していこうか、悩みの種。このままでは健康を害するばかりか早死にしそうだし、第一、ハッピーにクライミングや旅がでいない。
 しかし、今日はつかの間ほっとできる日だった。
 ぐっすり朝寝坊。

 午前中は、家の掃除やら洗濯、散らかり放題の仕事部屋の整理をして過ごした。
 昼から、私に一番身近で一番協力してもらっているブレイン、ぱーちゃんに岳人5月号の相談。岳人では今年一年装備ページを担当しているが、早くもネタが枯渇してきた。息切れ状態だ。
 おかげさまでいろんな方々から反響を聞くことができ、アイディアをもらっている。先日なんて、ライバル会社のある編集者が、「読者として楽しく読ませてもらっていますよ」と言ってくれた上に、率直なご意見も伺うことができた。うれしい限りだ。
 しかし、実際の読者の声はなかなか聞くことができないので、少し心配もある。webを整えて、読者ご意見箱を作りたいと思っている。
 
 ページ構成にラフスケッチを描いて、少し先が見えてきた。あとは、週明けからガンガン働くだけだ。
 カタログの切り抜きページでは作り手も読み手もおもしろくないはず。もっと具体的で活動的なページを作るためには、作り手もからだを動かしながら、ページを作っていかなければ。

 夕方からは、珍しく週末休みの夫と一緒に近所のスーパーと自動車屋めぐり。
あるふたつのディーラーを回ったが、車のよしあしに加えて、セールスマンの力も大きい。こちらのかゆいところに手が届く人には、どうも好意的になってしまう。
 我が愛するカリーナーサーフは、そりゃ、おんぼろで17万キロになるけれど、まだまだ元気に走ってくれている。こういう風に大切に乗っているというのに、古い車には自動車税を30%アップするとは、石原知事はとんでもない。そりゃ、新しい車よりも排気面において環境に悪いが、車一台を廃車にするときに出るゴミのことも考えて欲しい。モノを大切にして、何が悪いのだろう。
 
 クルマは、仕事でも遊びでも旅を共にする大切な仲間なので、情が移る。その前のクルマ、パルサーは知人から2万円で貰い受けたものだった。色にちなんで、「黄色いチャン」と名前をつけて大切に乗っていた。1トンに満たない身軽さが好きだったけれど、どうにもこうにも動かなくなったときに、泣く泣く手放した。廃車にするために取りに来た業者のお兄さんを、私は涙目でにらんだものだ(彼にとっては、まったくの筋違いだろうけれど)。

 今乗っているいとしのクルマもいよいよ、元気がなくなってきた。でももっと乗れる気もするし。迷うところだ。カリーナサーフよ、がんばってくれ!

 夕食後一仕事して、遅くならないうちに寝よう。

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*写真は旭岳でのtree run。このすぐ脇の沢に温泉がわいていた。

2005年2月25日 (金)

ゲラ戻し

昨晩はぐっすり眠れた。
 午前中家で仕事をして、午後から岳人編集部へ。4月号のゲラを戻した。これであとは、校了のときに校正して終わりだ。先月号では商品価格を誤って表記してしまった。装備ページは、商品名、ブランド名、価格、問い合わせ先電話番号など間違えると致命的な要素がたくさん入っているので、神経が緊張する。

 帰りに本屋へ。ここ数日、友人・知人から、「見たよ、あの写真」「写真家としての仕事も始めたの?」(→これはかなりキツイ冗談)と声をかけられ続けたが、なんのことだかわからなかった。旅をテーマとした雑誌『Coyote』に私が撮影した写真が載っているらしい。友人のエッセイの横に。彼らに渡しておいた写真を使ってくれたんだな。
 早速、1冊購入。心がほっと温かくなるようなエッセイだった。

 この号の特集は「ハワイローカルヒーローへの旅」。ジェリー・ロペスもレイアード・ハミルトンも、ジャック・ジョンソンも私の好きな人たちだ。この方面のことを精力的に書き続けている岡崎友子さんの文章もたくさんある。
 思うに、サーファーというのは、クライマー同様、ものすごくピュアな人種だと思う。
 パタゴニア日本支社でプロパーチャスを担当しているモリケンさんと、昨秋に話したことが印象に残っている。彼はパタゴニアの仕事の傍ら、世界各地のサーフィンの試合を転戦している。そのときは、ちょうど、バンフ・マウンテン・フィルムフェスティバルを観たあとだった。ある純粋なUKクライマーを描いたフィルムについてふたりで話した。そのときモリケンさんは、「彼がサーファーだったらなあ!って思いましたよ」と。なんだか、気持ちがわかった。
 サーファーもクライマーも、こういった、ピュアな心で、ただただ波や岩が好きな人たちのことが大好きだし、心からリスペクトしたくなるんだよなあ。

 帰宅後、猛烈な胃痛・腹痛に見舞われているので、今日はもう寝ることにした。
 仕事量が多すぎることはわかっている。来月から書籍の仕事も入ってくるので、調整して、量を減らしていかないと、質のいい仕事ができなくなってしまう。

 写真は、旭岳温泉のロッジ・ヌタプカウシペで食べた、キトピロ(行者にんにく)と鹿肉が入ったラーメン。塩味。すっごいおいしかった。鹿肉は本州で食べるものと風味が異なるようだったが。最近疲れ気味なので、キトピロ・鹿肉ラーメンを食べて、スタミナをつけたいなあ。

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2005年2月24日 (木)

高尾山→横浜居酒屋

高尾山の山頂にある東京都高尾ビジターセンターで打ち合わせ。自宅最寄駅を6時24分に出発する電車に乗るために、目覚まし時計を3つかけて寝たというのに、まったく音が聞こえなかった。気づいたら、6時10分。自宅から駅までは徒歩20分。普通間に合わないでしょう……。なぜか乗れました。
 
 登山口で、岩崎元郎さんと登山ウエアメーカーの広報担当者と偶然に会う。
 ケーブルカーの発車を待っている間に、ふもとの寺へ。清水が滝のように流れ落ちているところにしめ縄が飾ってあり、清清しい風が吹いていた。
 ケーブルカーを降りると、薬王院を通りながら、山頂へ向かう。途中、振り返ると都心がかすんで見えた。
 
 午前中はセンター内で打ち合わせ。若い女性スタッフが多いことに驚く。
 午後はもみじ台、一丁平まで歩く。前回の雪が残っていて、登山道は一部グチョグチョ。長靴が歩きやすかったかなあ。
 山頂より西というのは、一気に人も減り静かになる。葉が落ちた森の中を歩くのは楽しい。次の機会には、景信山や陣馬山へ歩きたいなあ。
 帰りは6号路を降りた。初めての道。沢沿いにたどっていくコースで、夏場は涼しくて気持ちがよいかもしれない。

 その後、上海から日本に出張できている張さんに会うべく横浜へ。
 実は、張さんと会うのは初めて。日本に来た際にはぜひお会いしたいと思っていた。
 昨年秋、中国の山岳雑誌に友人でもあるクライマーの泰史さんのことを書いたとき、張さんにはものすごくお世話になった。私の原稿を別の中国人の友人が日本語に訳してくれ、それを編集者が編集するのだが、元原稿とまったく違う意味、内容のものになってしまい、いろんなことが起こった。
 理由は、それぞれの国の文化の違いかもしれないし、考え方の違い、一番大きいことは、登山に対する認識の違い、そして表現や出版という仕事に対する認識の違いだ。私には私の主張のある文章だったので、とってもかなしかった。
 そういったときに、張さんは手を差し伸べてくれ、ものすごい分量の日本語と中国語を読みこみ、どうやってこの齟齬を解決しいったらよいか、アドバイスしてくれた。
 このときは、ほかにも、中国語翻訳を仕事としている友人のあっちゃんや、日本在住の中国人女性も私を助けてくれた。

 これまで自分なりに異文化に接してきたつもりだったが、これほども異文化理解が難しいということを、この歳になって強く感じた出来事だった。

 さて、実際に張さんとお会いして話をすると、とっても楽しかった。
 中国における登山というのは、日本とは大きく違う。始まりは、選手のような人たち(国の公務員、体操のオリンピック選手と同様)が登るだけで、今でも彼らは、次にどの山に登るかを自分たちで選ぶことはできない。ひょっとしたら、次にここに登りたいという意思を持っていない人もいるかもしれない。ともかく、山に登って(とくに標高が高い山が評価される)、給料をもらうのだ。私が、2002年にチョ・オユーに一緒に登った女性たちは、こういったステイタスだ。
 最近は、一般的な人たちのなかに、登山愛好者たちが出てきたが、それでも、まだまだ、登山の社会は成熟していない(もちろん、日本もだけれど……)。
 だから、張さんのように、自分自身が心から山が好きで、山に登りたい、歩きたいと思って、自分で全てのことを選択して登っている人は本当に珍しい。
 彼の場合、日本で登山を覚えたのだが。
 
 そしてもうひとつ強く感じたのは、張さんが自分の国のことをよく理解しているということだ。自分自身に置き換えたときに、果たして、自分の国の特徴、国民性、習慣、センスを客観的に理解しているだろうか、と考えるとあやしい。。。張さんは、3年のオーストラリア、12年間の日本暮らしの経験があるためか、本当によく自国を理解している。
 
 夜遅くなって、編集者の菅ちゃんが合流。3人でお酒を飲んで、別れた。
 今朝ダッシュで階段を駆け上がった自宅最寄駅に着くと、雨が雪にかわっていた。

*写真は、日が傾き始めたころの、冬枯れの高尾の森

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2005年2月23日 (水)

モノには執着しない

春一番が吹いて、生暖かい空気が流れていた。
 午前中に雑仕事をして、昼前から目白のカラファテへ。カラファテは、テレマークスキー、クライミングのギア、それからスキーとクライミングそのものに関しての超玄人たちがやっている店、これぞプロショップだと思う。
 私は、個人的にもまた仕事上でも何か困ったことがあると、すぐにカラファテへ行ってしまう。駆け込み寺かあ? そして、ギアのことを相談する。

 今日は、来春に友人が通訳の仕事でチョモランマに登るというので、それに関することで相談にいった。中国に住む彼は、チョモランマにふさわしいブーツを入手することができなかった。北京でスポルティバのジャヌーを買ったものの、超高所にはいまひとつの保温だし、第一サイズがぴったり過ぎたという。高所ではサイズは大きめのほうがいいから、ちょっとダメだ。
 そこで、私の弟のような友人タケサコが昨夏にk2で使ったミレーのエベレストを譲ることで話がまとまったのだ。
 タケサコは10歳ぐらい年下の大学山岳部の後輩だ。彼が現役のころは、部員がほとんどいなかったので、本当によく一緒に山に行った。いっつもウチに泊りにも来ていた。

 タケサコはしばらく高所の予定はないので、「遠慮せずに使ってください。僕のブーツが続けて8000をトライできるなんて、ラッキー」と言ってくれた。私は、彼がずっと前からk2に憧れていて、ここ数年そのためにどんだけの努力をしてきたか知っているから、その思い出のブーツをぽ~んと差し出してくれる寛大さに感激した。
 モノよりももっと大切なものがある。目に見えなくて形のないものだけれど、彼の心のなかには、k2の思い出と経験がきっちりと残っているのだろう。
 我が弟も立派になったもんだ。感慨深い。

 そのタケサコの大切なブーツに合うアイゼンを探しにいった。こういう特殊なブーツはアイゼンを選ぶので、きっちりとフィッティングすることが大切だ。
 カラファテのジャックと相談した結果、ブラックダイアモンドのセイバートゥースに決定。早速フィッティングした。さらに、バンドを長いものに変えれば、ばっちりだ。

 その後、山と溪谷社へ。芝大門からアメリカ大使館の裏に引っ越したばかりだ。
 ふたりの編集者と書籍やムック本の打ち合わせ。
 その後、『山と溪谷』編集部へ。今日でお別れのマイちゃんにごあいさつ。

写真は、アイゼンを調整してくれているジャック。後ろに超レアなテレマーク板が見えるのだが、おわかりいただけるでしょうか。
注)写真右手にある雑誌は『Powder Guide』。やらせではありません。本当にこのようにカラファテのカウンターに飾ってありました。現在日本唯一のバックカントリースキー雑誌。

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2005年2月22日 (火)

おじ様がたと座談会

早起きをして、雑仕事をする。
 昼前に家を出て、茅ヶ崎へ。昨日渡した原稿のデザインが上がっているので取りに行った。駅前の喫茶店へ。いつもはせわしなくデザインの受け渡しだけをするので、少しでもデザイナーさんと話ができるのはうれしい機会だ。
 実際の私たちの仕事のこと、編集部のことなどを話した。デザイナーさんは、若い頃演劇をやっていたそうだ。今でも芝居や映画を見るのが好きで、その号のデザインを全部上げた日には、編集部の帰りに劇場に寄るのが心からの楽しみだという。私でいえば、校了明けとか、脱稿したときに、そういう心が晴れ晴れとした気分になる。

 編集部へ行って入稿。

 その後、エディコへ。エディコは私がこの仕事を始めたときに最初にお世話になった編集者・伊藤文博さんたちがやっている編集プロダクションだ。エディコから来夏に創刊される雑誌の座談会に出席。
 世界中の山や、山岳地域、旅、登山の話をした。
 ところが、私以外の3人は世界の登山、旅に関しては筋金入りのツワモノたち。しかも大先輩ばかり。一体、こんな面々に囲まれて、私は何を話したらよいのだろうか……。

 座談会後は、文博さんと編集者のエビネさんも加わって、近所のインド料理屋へ。ビールにワインにウィスキーと呑みながら、タンドーリチキンやカレーを食べる。ああ、おいしかった。

 写真は座談会風景。

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2005年2月20日 (日)

山と人にコミットメントすること

岳人4月号の装備ページにご協力いただくために、Sさんのお宅を訪問。普段お使いの装備を拝見してきた。他人の装備をまじまじと見ることなんて、あんまりないから、オモシロイ。彼女は、装備に関して一貫した考えを持っているからなおさらだ。
 写真撮影を、星野秀樹さんにお願いした。彼と仕事をするのは2度目だが、同世代(おそらく、多分、ちょっと先輩かもしれないけれど)のうえに、テレマークとサーフィンと趣味が似ていることもあって、楽しくやらせていただいている。

 本当は、Sさんには装備の話だけでなく、ご自身の山の話や学生との関わり合いについてお聞きしたかったが、今回のページのテーマからはずれるので、あきらめる。
 大学でワンゲルに在籍して、山を覚えた。卒業後、すぐにコーチになり、その後今日まで、おそらく30年近くものあいだ、ずっとコーチと顧問という立場で学生の指導に当たっている。
 死というリスクをぬぐいきれない登山であるが、学生の登山というのは部活動、教育の場である。絶対に死んではならない。そいうった厳しいなかで、学生の登山と関わるというのは、学生一人ひとりと、真剣に付き合って、深くコミットメントしなければできないことだ。
 私も卒業後しばらく母校山岳部のコーチをやっていたが、当時は私自身も未熟で、本当に至らないことばかりだった。
 来年から、その母校山岳部の監督を引き受けることを決めたばかり。生半可な気持ちではできない役割だと思っている。
 ご自身の山でも、スタイルを貫きながら、学生と関わり続けているSさんには、本当に心の底から尊敬した。

 帰りの電車では、いただいたワンゲルの会報を読みふける。
 夜、帰宅。
 事情があって、この3ページ分の原稿を明日の昼までに入れなければならない。おまけにほかのページももう少し手を加える必要がある。
 かなり無理のある話だけれども、私のこの仕事へのモチベーションは、Sさんの人柄と彼女の山に対する真摯な気持ち、そこにある。なんとか、がんばれそうだ。
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2005年2月19日 (土)

パフパフツアー深夜解散

今日から北海道の天気は下り坂。ふたつ玉が北上してきたので、大荒れになるようだ。朝は、まだ穏やかな状況。いつもどおり、朝風呂と2膳の朝飯。こんなに食べても、体重が増えないのは、やっぱり運動量のおかげだろう。久しぶりの食欲だ。

 帰りのバスまで時間があったので、宿にあるピアノを拝借。幼馴染のすーちゃんのお母さんはピアノの先生で、私も中学生まで習っていた。
 いくつかの有名どころの曲を弾こうと試みたものの、ぜんぜん指が動かない。まったく弾いていないのだから、当たり前なのだが。仕方がないので、「ハノン」を1番から10番まで2回弾いた。少しずつ、音の粒がそろい始めた。これが、真珠の首飾りのようにきれいな粒にそろったら、ステキなんだけれど。
 「ハノン」のあとに、「エリーゼのために」にトライすると、なんだか少しだけ弾けた。

 無料バスで旭川まで。そこから特急で札幌へ。そして、秀岳荘本店、白石店のほか、札幌ファクトリーに入っている、モンベルに立ち寄ってモギくんに会うことができた。札幌ファクトリーには、A&F、ザ・ノース・フェイス、コロンビア、フォックスファイアーなどたくさんのアウトドアメーカーが入っている。こんなところ、日本中探しても、ここだけじゃないかしら。相乗効果によって、売り上げは伸びているようだ。この不況にあってスゴイことだ。

 その後、回転寿司へ。オトコどもは20皿ぐらいペロリ。今日はぜんぜん運動していないというのに。北海道の回転寿司は本当においしてく、しかも安い! とくに貝類が最高だった。

 トッチーに別れを告げようと、再び秀岳荘本店へ行くと、偶然にも写真家の佐藤雅彦さんがいらっしゃった。先月のSnowDivaTelemarkの際に、手弁当で協力してくださった方だ。雅彦さんたちは、積丹での取材の帰り。明日から天気が大荒れなので、撮影も行動もできないから、ひとまず札幌に戻ったとのこと。
 私たちの方は、今回、大当たり極上パウダーとまではいかなかったものの、本州に住むわれわれには十分おいしいパウダーだったし、天気もまあまあ安定した。
 おかげでビデオ撮影もなかなかうまくいったはずだ。これで、小さいながらもおもしろそうな作品が作れるだろう・・・? とパフパフツアーのかなっぷはもくろんでいる。

 ホント、私たちの仕事&遊びは天気次第。こればかりは、仕方ありません。はるばる地球の反対側にいったって、天気が悪くて計画通りに行かないことは、いくらだってある。
 おまけに最近は、異常気象なのか、例年通りの気候を想定して、クライミングや登山の計画を練っても、まったくダメダメのときが多い。昨夏の、四川クライミングでは、思いっきり雨にやられた。一昨年の四川の山歩きや山旅も、大雨、洪水にやられた。その前の、チベットでの登山では、モンスーン明けが遅れに遅れて、随分粘ってからアタックしたものだ。
 今年は、インドとパキスタンが大雪だと聞いた。山岳地域に住む人々の生活は大丈夫だろうか……。

 8時半のフライトに間に合わせるべく、千歳空港へ。ところが、お決まりのフライト遅れがやってきた。空港へ向かう車窓から、外を眺めていたときからすでにいやな予感がしていたんだけれど。雪はいよいよ本格的に降り始めていた。吹雪といってよい。おまけに、思いっきり湿ったボタン雪だ。かなり積もりそうだ。
 世界中を見渡しても類まれなる積雪があり、除雪技術は天下一品といわれる千歳といえども、除雪作業が間に合うのだろうか……?

 ちょうどタイミングが悪かった。私たちの前のフライトまでは何とか飛ばしたものの、すぐに2本の滑走路をすべて閉鎖して除雪作業に入ったところだった。これじゃあ、1時間以上遅れるでしょう。
 すでに本屋もインターネットスペースも閉店。何もやることがない乗客たちは、ロビーでひたすら待つ。
 私たちは、クロカンレースを放映しているテレビに釘付け。途中から私はソファで熟睡。私たちの空間は、昨日までの宿の部屋のような雰囲気をかもし出していたかもしれない。
 となりの知らない人々は、酒盛り。まるで飲み屋のような状態だ。ほか、いらいらとしながら何もしない人、読書をする人、モバイルをする人など、見渡すといろんな人がいる。
 フライトが遅れることなんて、旅していれば時々あることだ。
 ちょうど昨日読んだ雑誌に、浅田次郎がロスでフライトが遅れたときのことが書いてあった。その後の交通手段(乗り換えにせよ、列車やバスにしろ)の手配は各自の責任で行なうのが常識だ。新しく手配しなおすにしても、その際の費用を航空会社や旅行会社に掛け合うのもその人次第だし。そういった状況のときに、日本人の若者のなかに、何もできずにおろおろしている人や、現状を把握できずにぼっとしている人を見かけたという話。
 まったく、頼りない、というのが浅田次郎が感じたところのようだ。
 
 今回の私の場合は、羽田に車を持ってきているので、心配なし。
 結局、羽田着は2時間の遅れの深夜12時。全ての公共交通機関は終わっていたから、大変。ANAは、新宿、東京、横浜へ無料バスを出した。タケシは横浜まで乗って、その後タクシーで帰っていった。
 私とかなっぷは、近所に住む和平を送り届けてから帰宅。

 明日から混んだスケジュールとなるので、洗濯とメールの返信をして、寝たのは明け方だった。はやくも、不規則、不健康生活に戻ってしまった。

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 下の写真は暗くてよく見えないけれど、機体についた雪を除雪している模様。大きなフォースから勢いよく水が出ている。

2005年2月18日 (金)

やっとからだが慣れてきたところ

朝は自然と目が覚める。和平とかなっぷの布団はもぬけの殻だ。散歩か風呂にでも行ったのだろう。タケシはまだ夢の中。
 起き上がってぼっとしていると、和平が風呂から戻ってきた。「ああ、腹減った」朝一番で会ったというのに、”おはよう”のあいさつもなく、このせりふだ。私たちの会話は、パウダーの話題以外は、「お腹がすいた」「風呂に入ろう」「眠たい」これだけになってきていた。
 私も一風呂浴びてから、朝食へ。またまた軽く2膳食べてしまう。普段の倍以上だ。たくさん動いているし、この寒さだからカロリー消費が大きいのだろうか。オトコたちは3膳コース。
 
 午前中はドピーカン。上部は強風なので、シールでハイクアップよりも、ロープウェイを使って山の中に入っていき、パウダーを食ったほうがよさそうだ。
 数年前の2月に、旭岳に来たとき、かなっぷと大学山岳部の後輩のタケサコと3人で旭岳の頂上を目指した。あれはすごかった。ものすごい強風と寒さで、顔はあっという間に凍傷。なんとか3人で戻ってきたが、結構大変だった。

 午前中滑ると、私のひざはいよいよ本当に痛くなってきた。左ターンはオッケーだけれど、痛い右足が後ろ足となる右ターンになると、ぜんぜん踏めずに転んでしまう。
 スキーそのものは昨日より調子が上がってきていて、もっとパウダーを滑りたい気持ちがはやる。テーピングをすれば大丈夫かもしれない、とも思ったが、この痛さは、持病であるひざ痛とはちょっと違う気がしたので、あきらめて、一足早く宿に帰ることにした。
 パウダーはパウダーを滑らない限りうまくなれないので、すっごく残念。

 宿に戻ってウエアを脱ぐと、ひざははれている。これはケガと呼んでもよいかもしれない。テレマークをやっていると、ホントありえないような転び方を何度もする。昨日も今日も大きく前転したり、股が裂けそうに大開になったり、腰がガクンと縮こまったと思ったらぐおおおと体が伸びながら転がったり……。そのたびに、体の柔軟性とか反射神経とか、筋力とかでケガせずにこなしているのだが。。。
 元々悪い右ひざの筋を、睡眠中に伸ばしてしまい、その上に昨日の転倒でひねってしまったのかもしれない。

 冷やしたほうがいいと思いながらも、からだを温めたくて風呂へ。
 風呂から上がったころに、タケシが戻ってきた。カーボン製のストックが折れたという。悔しがっているところもビデオに収めたというから、あとで拝見しましょう。
 リビングの一角にある南米産とおぼしきじゅうたんが敷かれたところで、読書にふける。
 かなっぷと和平が戻ってきたのは、日が落ちる頃。まあ、よく滑るもんだ。さぞかし満足でしょう。
 早速、ワインと今日仕入れた旭岳ビールを呑みながら、ビデオ上映会。みんな昨日よりも体が慣れてきて、いい感じの滑りになってきていた。かなっぷはとくに顕著で、昨日は、どうしちゃったんだい、というほど滑れていなかったけれど、今日はいつもの調子が戻ってきたようだ。

 夕食を腹いっぱい食べて部屋に戻る。今日一番たくさん滑ったかなっぷと和平はすぐにバタン・キュー。「起きろ!」と揺り動かしても、「体がばらばらになりそうだ」と寝てしまう。本当に滑りつくしたんだなあ。

 スキートリップの魅力は、スキーのことだけを考えていればいい点。ほかは、食べることと寝ること、それだけだってことが、最高に幸せなのだ。

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2005年2月17日 (木)

なまら楽しい!

朝目覚めると、お腹がすいていた。一風呂浴びたあと、朝食。なんと、2膳も食べてしまった。
 すぐに、札幌からトッチーがやってきた。今日は、天気も上々なので、旭岳ロープウエイを使って、ガンガン滑りまくる日にしよう。
 まずは、盤ノ沢方面を4本滑る。途中、谷に入る前のトラバースがいやらしいところがあって、少々緊張。ゲレンデで滑っている分には昨年1年滑っていないというブランクを感じていなかったが、こうやって山の中を滑ると、さすがにブランクを感じる。滑りにしても、トラバースなどのいやらしいところを無難にこなすことにしても、どうもダメだ。体が山慣れしていない。いやらしいところこそ、サクッと通過しないと、とんでもない目にあうことがあるはずだ。
 そこは、昨年、雪崩死亡事故が起きたというところ。確かに雪の状態が不安定だったらあっという間になだれそうな地形。2度目に通過したときは、クラックが走り始めていたので、私的にはそれを最後とした。

 滑りのほうも、ぜんぜんダメ。最悪……。かなっぷと和平とタケシは、それぞれ自分たちの乗り位置とか、後ろ足をいかに踏んでいるかについて討論している。トッチーには、パウダーは3次元的に考えて滑ることを教わっていた。しかぁし、今の私はそんなレベルではない。板がバタバタだ。
 トッチーの滑りは、ともかく早い、早くて早くて早い。独特のリズムは、ずっと前に彼と滑ったときと変わっていないように思う。

 午前中に4本滑ると、さすがにお腹がすいた。パウダーを抜けたあとの、いわゆる”お帰りコース”でいかにからだを休ませるかがカギとなっていたが、私はみんなについていくのに精一杯。

 昼食は、宿に戻って「キトピロ鹿肉ラーメン」を食べる。メチャクチャおいしい。キトピロとは、行者にんにくのこと。

 午後はロープウェイをはさんで盤ノ沢と反対側を滑る。温泉が湧き出ている沢沿いのトゥリーランは気持ちよかった。

 合計7本だか8本滑って、足はガクガク。
 実は、今朝起きたときから、なぜかひざが痛く、その痛みも当然のごとく増してきた。滑っているときは忘れてしまうけれど、ビンディングをつけるときなどはしゃがみこめないほどになってきた。どうしたんだろう? 
 一昨日徹夜だったために、昨晩は意識を失うように寝てしまったが、寝ている間にひざを捻挫するってことがあるんだろうか? 仲間たちにいわせると、「小人がいたずらしたんだ」という。???

 パウダーでお腹一杯になったし、ロープウェイの営業時間も終わりだ。宿へ戻り、すぐに風呂へ。
 男風呂は、男衆4人に、トッチーの知人だという山岳ガイドの方も加わってとってもにぎやか。あれは、ビールを呑んでいるな。
 私はひとりでボーっとする。窓の外のもみの木と川の流れを見つめていると、寝ちゃいそうだった。このお湯は本当にいつまでも入っていられるいい温度だけれど、もう十分だ。男たちの声はやまないけれど、先に出ることにした。

 夕飯はまたまたたくさんのおいしいおかずが並ぶ。ご飯は2膳で、ぐっと我慢。
 部屋に帰ったあとは、男山を呑みながら、今日撮影したビデオ上映会。ああだ、こうだ言い合ったりして、さらには次なる山の話をしていると、あっという間に眠くなった。
 バタンキュー。なんて、幸せなんだろう。滑って、食べて、温泉入って、呑んで、眠たくなったら寝る。

 それにしても、男山の一升瓶はなくなったし、明日からの酒が心もとない。どうなるんだろう。
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2005年2月16日 (水)

愉快な仲間とパフパフツアーの始まり!

早朝のフライトで千歳へ向かうために、羽田空港に7時集合。北海道・旭岳でのパフパフツアーの始まりだ。
 
 東京から向かうのは、和平とタケシ、かなっぷと私の4人。
 タケシとは、1ヶ月前にこれまた6時ごろの羽田で偶然会って(私はニセコへ、彼は大阪へ出張)朝飯を一緒に食べて以来。
 和平は、なんと前日にジャクソンホールから帰ってきたばかりだ。しかもジャクソンに旅立つ前日にあばら骨を折っているらしい。「まだ遊ぶ気かい?」とわが友人ながらそのハチャメチャ振りにあきれてしまった。まあともかく、無事、和平の体とテレマークの靴と板が飛行機から出てきて、滞りなく日本に入国できてよかった。

 札幌に着いて私たちが向かったのは、秀岳荘札幌本店。北海道の老舗登山用品店だ。
 明日合流するトッチーにあいさつ。トッチーとは、テレマーカーの間ではいわずと知れた人物であるが、ここはテレマーカー以外の方々のために簡単に紹介すると、パウダーの名人。
 5年ぐらい前だったと思うけれど、パウダーエイト(ふたり組みでパウダーを8の字に滑る)の世界大会で優勝した。北海道の山々はもちろんのこと、カムチャッカやムスターグ・アタなどいろんなところで滑っている。もっともっと偉大なる記録はあるけれども、彼にとって、”記録”なんて無意味なもので、きっと、パウダーを滑る一瞬一瞬の喜びが重要なのだと思う。
 一言で説明すると、パウダーが大好きな、スキーを心の底から愛していて、きっといつも滑ることばかり考えている人、だと私は思う。
 つまり、私の価値基準からいくと、ものすごくハッピーな人。なまらハッピーな人。
(なまら=北海道の言葉で、とても weryという意味)
 トッチーには、私が岳人で担当している装備ページにコラムを書いてもらっている。2月号と5月号が彼の担当になるので、ぜひお読みください。

 旭川までは特急。その後、旭岳温泉までは、なんと無料バスで移動できる。板と靴とウエアと重い荷物を抱えながら、旭岳温泉に着いたのは夕方。
 数年前に、タケシとかなっぷと一緒に泊まった宿、ロッジ・ヌタプカウシペへ。宿の名前の意味は、アイヌ語で「大雪山」。ここの風呂と料理は最高だ!

 早速、風呂へ。緋桂でできた浴槽、浴室がなんとも気持ちがよい。お湯はやわらかくて、ぬるめ。いつまでも入っていられそうだ。ちょっと塩気がある。窓の外には雪を載せたもみの木が見える。
 ゆっくりとお湯につかっていると、身も心も静かに落ち着いてくる。ここ数ヶ月の激務を忘れ、気持ちが切り替わっていく。

 おいしくて、品数が多くて、ボリュームもたっぷりの夕食に満足し、部屋に帰った。旭川で仕入れた男山を飲んでいると、いつの間にか寝てしまった。仲間が布団を敷いてくれて、私を押し込んでくれたようだ。

 明日から、最高の楽しみが待っている!

050216

2005年2月15日 (火)

今日までは仕事モード

明日から山へ行くために、最後の原稿書き。大きなのが2本も残っているから、かなり切羽詰った状態。
 今月は、偶然の話なのだが、2誌別の雑誌に向けて、女性と登山というようなくくりで、いろんなことを書いている。
 しかし結局のところ、女性だから何か特別に大変とか、女性だから・・・・というようなことはない気がする。そりゃ、子どもを産むのは大変なことだし、その間はどうしたって登山はできない。でも、産んで育てている女性が「それっぽっちのことよ」と言ってのけているのも知っている。それに子どもを育てるのは男性も女性も一緒のはずだ。 

 合間に、雑誌の編集者や今度私が編集を担当する単行本の著者の方と電話で打ち合わせ。

 中国は今日までが正月休みらしく、連日飲んだくれて遊んでいる友人からは気ままな電話が入って、私の仕事モードが危うくなる。まったく、受話器の向こうから爆竹が聞こえてきそうだ。
 
 山の天気も気になるところ。仕事の合間にwebのポイント予報をチェック。いい感じで雪も降りそうだし、パウダーが楽しめそう。ただし、最高気温-12度、最低気温-25度というのには、さすがにビビル。

 さて、今晩は仕方ない。もう一仕事してからでないと、眠れません。
 そして、恒例のドタバタパッキングは、明け方から始めるしかない。その後、早朝便で千歳へ。

2005年2月14日 (月)

気乗りせず

連休中に終わらしたかった仕事が終わらず。予定より1.5日ぐらい遅れている状況。体調も気持ちも、仕事に乗っていけない。なんていっている場合ではなく、もうあとがないのだけれど。夜になって、やっと調子が出てきた。

 写真は、昨日のケーキのあまりの材料で作った、ブルーベリーとイチゴの味のフローズンヨーグルト。友だちのmasayoのブログに載っていた作り方を拝借した。彼女のブログある、トマト味のなべも作りたいんだよなあ、と思っている自分を見て、ひょっとして、仕事が切羽詰ってきたから現実逃避を始めているのかもしれない、と思った。
 やるべきことをやらないと、遊べません。あと2日、がんばりましょう。

 カトマンズに住むチベット人の友人から「心配することはない」というメールが届いた。Losar(チベット人たちの正月)を楽しんでいるという。

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2005年2月13日 (日)

久しぶりの台所

ふせって以来、夫が食事を作ってくれていて、それはとても感謝しているのだけれど、いい加減自分で作りたくなってきた。どうも、私は自分で作りたくなるたちで、エクスペディションでベースキャンプにコックを雇っているときでも、ついつい手を出し始める。
 
 前々からあたためていた計画、レアチーズケーキを作った。名づけて「berry berry cake」。一応、これまでの夫への感謝と、ついでに、明日のバレンタインと、それから今月誕生日を迎える友人が多いから、バースディケーキも兼ねている。
 そして、その友人・知人たちがひとり残らず、私の住んでいるところから遠く離れているので(天国の亡父含む)、この画像をカードにして送るのだ。
 食べるのは、私。ちょっと都合よすぎるだろうか。

 もう少し仕事をしたいところだけれど、じっとがまん。十分な睡眠を心がけよう。
 そしてできることならば、これを機に、朝型に切り替えたい。

050213

2005年2月12日 (土)

外に出たいよぉ

からだがいうことをきかないし、仕事がたまっているとなれば仕方のないことだけれど、こう毎日デスクワークが続くと、いい加減いやになってきた。

 昨日届いた『岳人』3月号に、やっと目を通した。2月15日発売です。
 今年の岳人の目玉は、巻頭にあるカラーインタビュー「30の質問」ではないだろうか。オモシロイ。今月号は、ガメラさんこと、菊地敏之さんへのインタビュー。「いいクライマーになるための必要な資質とは」「遭難を選らすには」の応えに、深く納得。

 もうひとつ、「ゼロから始める***」という連載(?)の企画も力作。誌面作りに一生懸命な人が集まっている雑誌というのは、いいなあ。

 自分のページについては、あまり読み直さないのが私の悪いくせ。
 ほかの人はどうだかわからないが、校了した時点で、もうすっかり過去のものになり、次のことを考えているので、なかなか読み直すにはパワーがいる。それに、それまでに散々読み直してきた(推敲とか校正とかで)だけに、胸焼け状態というのも本当のところ。
 しかし、ボーっと眺めていたら誤植を見つけてしまった。あああああ、、、仕方ありません。他者も関係した話なので、週明けに編集部に電話しましょう。

 医者に行ったところ、どうやら峠は越えたようだ。薬も変わった。それまで強い薬だったためか、からだがだるくて困っていたけれど、明日からは少し元気になれるかもしれない。まあ、夫曰く、「あんなに高熱が続いたんだから、体力が落ちていて当たり前」とのことだが。
 
 来週こそ、雪のなかに出たい。かなり濃いぃパウダー好きのメンバーがそろい始めたから、何とか体力を回復させなきゃ。彼らの遊びパワーについていけないぞ。

2005年2月11日 (金)

今日もじっと仕事

3連休は友人と山にいく予定が、こんな体調なので平謝りしてキャンセル。
 ああああ、自業自得ではあるが、本当にもったいないことをした。雪の山に行きたかった。
 
家で静かに仕事。体調は不完全で、どうもなんというか踏ん張りが利かないという感じ。今日も、そろりそろりとやるしかなかった。ヤマケイのデータページを1本上げたかったのだけれど、終わらず。

 前々から日記に書きとめておこうと思っていたことがあったので、この機会に。

 以前から注目していたフォトジャーナリストのかに(可児)さえさん
 ジャカルタとバリをベースに、アジアを中心に人権、環境、開発の問題を撮り続けている。私のなかでは、東ティモール問題や、彼女が最近まで拠点としていたロンドンの難民、移民問題を扱った写真やレポートが印象的だ。
 
 その彼女が先日まで、Cafeglobeという女性向けのホームページに、「アチェ 22万人が津波に飲まれた村々から」というレポートを連載していた。
 
 アチェの人々が、あの大地震と大津波のあと、どうやって生き延びて、暮らしているのか。各国の援助、いろんなNGOの援助が一体どのように行なわれ、現地の人たちに、何がどう渡っているのか、渡っていないのか、知ることができた。
 かにさんは、毎日、海岸に放置されたままの遺体を遺体袋に入れてまわるボランティアも行なっていた。
 小さな村や家々をひとつひとつ訪ね歩いたり、援助の現場をつぶさに見て回っている。大手の通信社では決してできないこと(というか、彼らが決してやろうとしないこと)を、ひとりでやってのけているのだ。
 こういう立派な仕事をする人には、本当に頭が下がる。

2005年2月10日 (木)

そろりそろり仕事

山と溪谷社がこの連休を使って引越し。FAXとメールが正午までしか通じないというので、慌てて原稿を1本送る。よし、よし、少しずつ仕事が片付いてきたぞ。
  
 薬が効いているのか熱は出なくなったが、どうも無理がきかない。定刻がきたら仕事は切り上げて、しっかり睡眠をとる生活にしよう。しかし、定刻がいつだか誰もわかっていないところが問題なのだ。

 最近仕事の合間に読んでいるのが、幻の『岩と雪』170号。先日友人から借りたものだ。
 今日読んだのが、東京岳人倶楽部による厳冬期の八ツ峰主稜縦走(1973年)と「高所登山はどう変わったのか」という座談会(1992年)。
 後者には、78号(おそらく1980年の号)に掲載されたという、原真氏の「高所登山のルネッサンス」から「包囲法を支える人間心理」という一節が引用されていた。
 登山をしない方々には聞きなれない言葉が続くけれど、ここに紹介します。

**********
 包囲法は組織の登山であり、その運営が複雑なぶんだけ、結果は単純で退屈なものになる。アルパイン・スタイルは個人の登山であり、その原則が単純なだけ結果は多彩で刺激的になる可能性をもっている。高所登山をたのしむのならアルパイン・スタイルを採用するにこしたことはない。包囲法が退屈なだけでなく、くだらない理由は、包囲法を支える人間たちの心理状態が封建時代の人間心理そのものだからであろう。価値の判定という立場から見れば、そこが一番大切な点だと思う。
**********

 なんともズバリ真実をついた文章だろう。四半世紀も前に書かれていながら、今なお新鮮。
 そして、もうひとつ思うことは、原氏が述べているような多彩で刺激的な内容であるクライミングが、もっともっと評価されて欲しいと思うし、一般の人たちにも理解してもらいたいと思う。それには、私のようなものが表現して、伝えていく努力をもっともっとするべきなのだろう。
 登山のすばらしさは、山の標高とか知名度とはまったく関係ない。皮肉なことに、それらと反比例することも多い。
 真にいい登山、クライミングを伝えていけるようにしたいと思う。

2005年2月 9日 (水)

各地のお正月

無理やり薬で下げた熱は、お約束どおりまた急上昇。昨日のツケはちゃんとやってきた。
 それでも、夕方からは熱も随分と下がってきたので、仕事を開始した。やりたいわけではなく、やらなければならない、非常に切羽詰った状態にあるのだ。
 こういうとき、ほかのフリーランサーたちはどうしているのだろうか。組合でもあって助け合えればいいのになあ。
 
 ともかく今日は1本の原稿を入れた。ゲラも見た。病み上がりながらよくやった、と自分をほめているところ。

 しかし、実のところ、ほめちぎっている場合ではない。これまで仕事が切羽詰ったことはいくらでもあった。胸を張って言うことではないが、編集者を心配させ、負担をかけながらもなんとか切り抜けてきた。しかし、今回は本当にどうなるのかしら? と自分のことながら先が見通せない。この2.5日間のダウンが痛手だ。そう、つまり元々綱渡り状態なのです。そんなところに大風邪を引いてしまった。一巻の終わり。
 昨日、ヤマケイ編集部のMさん(そういえば、ヤマケイにはMさんが複数いるなあ)にも、「なるようにしかなりませんので、ともかく風邪を治してください」と言われた。さすが、百戦錬磨、肝が据わっているなあ、いやもしかしたら、忙しすぎていくところまでいってしまったのかもしれない……。「お大事にしてください」とこちらが言いたくなった。

 たまっているメールにはほとんど返事をしていないが、昨日付けでカトマンズに住むネパール人の友人からメールが入っていることに気づいた。どうやら、回線が回復した模様。早速返信した。

 そう、今日は、チベットのお正月。中国の春節(正月)でもある。何かとふたつは対立するが、私にはかの地にそれぞれ大切な友人がいる。みんなが、心穏やかに新年を迎えていますように。

2005年2月 8日 (火)

やりたいこととオンナの人生

 昨日はともかく寝た。寝て、寝てネマクッタ。 
 今日も夕方まで布団のなかでじっとしていた。
 そして、なんとか熱を下げ、夜には座談会へ。
 この模様は『山と溪谷』4月号に収録するので、内容はここでは割愛。登山を趣味とする女性4人が集まって話をした。

 女性の人生のなかで起こりうるいろんなことが、ときにはやりたいことを中断させなければならないこともある。それは、きっと誰にだって少しは不安なことで、不安であることはちっともおかしなことではないように思う。
 今回出席いただいたなかの、私がクライマーとしても女性としても尊敬している先輩は、座談会中の私のある発言に対して、「それならば、大丈夫よ。自信をもってやっていけばいいわ」と言ってくれた。優しかった。グッときた。
 こう言ってもらえることが、どんなにうれしいことか。

2005年2月 6日 (日)

からだが悲鳴をあげた

日の講習中から体がゾクゾクしたのは、単なる気のせいではなかった。
 夕食後、宿の方にもらった風邪薬を飲んで、6時半から布団に入った。1時間後ぐらいに「飲み」のお誘いをいただいたものの、立ち上がることもできずに、布団に沈没。
 朝になっても熱は下がるどころかぐんぐん上昇の一途。とうとう40度になってしまった。
 ここ数日、水上の1日の積雪量が1メートルを軽く越えている。このからだであの雪の下の車を掘り起こして、東京まで運転して帰れるとは、いくらむちゃくちゃな私でも、到底思えなかった。
 雪崩レスキューのためのセイフティ・キャンプ2日目の講座は、欠席。
 周りの人に迷惑をかけまくる、最悪の方法で帰宅。

 インフルエンザか風邪かわからないけれど、ここ数ヶ月睡眠不足の激務が続いていたから、からだが悲鳴をあげたのかもしれない。からだよ、ごめんね。

 ということで、今日は布団に沈殿1日目。

2005年2月 5日 (土)

大雪のセイフティ・キャンプ

 日本雪崩ネットワークが主催する「セイフティ・キャンプ」に参加すべく、水上の大穴スキー場へひとりクルマを走らせる。早朝4時には自宅を出たというのに、関越で渋滞につかまる。そういえば、冬の休日の関越を走るのは久しぶりだったけれど、ちょっと読みが甘かっただろうか。事故渋滞にチェーン規制の渋滞、さらには水上の出口渋滞につかまって、20分遅刻。

 講習1日目の午前中は机上講習。雪の山に入っていくための基礎知識、雪崩の基礎知識、雪というものについての基本的なことを教わった。

 午後からはビーコンの機種別にわかれて、練習。私はオルトボックスのf1フォーカスだ。m2と同じグループ。
 ふたり組みで雪に埋めたビーコンを探す練習、グループで交代でリーダー役を務めながら組織的に、ビーコン・プローブ・スコップによる捜索をする練習などを行なった。ビーコンは縦に埋めたり、横に埋めたり、複数埋めたり、埋没者のうちのひとりがビーコンナシという設定でザックを探し当てたり、いろんな場面を設定した。

 この日水上は記録史上最高の大雪とかで、ともかく降る降る降る降る。
 
 夕方雪まみれになってそれぞれの宿へ帰還。私はゾクゾクするからだを温めるべく温泉に入ったあとは、夕飯を食べて布団に沈没。
 夜の飲みに備えて、大雪のなか酒屋へ行ってワインを仕入れたものの、飲みのお誘い電話に何とか受け答えをしただけで、起き上がることもできずに、再び沈没。。。
 一晩中、高熱にうなされた。

2005年2月 4日 (金)

赤い花:白い花

日中は家で仕事をし、夜から友人のマサオちゃんとマドモアゼル・シネマのコンテンポラリーダンス「赤い花:白い花~ネパール前夜、再び~」を観にいった。ネパールや中国領チベット自治区など、チベット文化圏を対象とした研究を続けていて、さらには、NGO・ランタンプランの代表もつとめる貞兼綾子さんのお誘いだ。私が尊敬し、憧れる女性だ。

 このダンスは、あるひとつの縁でネパールで公演することが決まっていて、1週間後には出発の予定だった。それが、今回の国王による強権発動、国家非常事態宣言だ。公演は実現できなくなった。実は以前にもカトマンズでの公演が予定されていて、そのときはマオイストの活動による政情不安定で中止になっていた。さぞかし、無念だろう。

 ダンスは、7人の女性によるものだった。途中から、私はあるひとりのダンサーと自分を重ね合わせていた。彼女の役割や意味するものがどういうものだったのか、本当のところ、理解しているかわからないが、重ね合わせていた。
 この作品が表現していたものは、多様であり、受け手によってそれぞれなのかもしれない。
 私は、観終わって、目に見えないものにも、自分から遠く離れたものにも、自分とは異質のものにも、想像力を働かせ、思いやりをもつことを忘れずにいたい、と思った。これが、私がこの作品から感じたことだ。

 ダンスのあと、アフタートークという時間が設けられた。ダンサーのほか、原案・振り付け担当、照明担当など作り手一人ひとりの思いや、ネパール公演に同行する予定だった貞兼さん、マドモアゼル・シネマのセッション企画室の方、さらには会場の方々が、いろんな話をした。

 彼らの話を聞きながら、私は約3年前のチョ・オユーの登山のことを思い出していた。貞兼さんが、マサオちゃんと私のことを、会場に、そう紹介してくれたからだと思う。
 あのとき、私はABCで毎日、ネパールと中国の国境をなすナンパ・ラという峠を眺めていた。峠の向こうはシェルパの暮らす、ネパールのクーンブだ。ある一定地域の両国民にはある程度の自由を与えられて行商のために行き来している。そういった行商の隊列が国境を越えていくのを見つめていた。
 ところがある日、国境で小競り合いがあったらしく、中国軍が発砲した。私の登山チームは中国と日本の女性合同隊だったために、私たちのテントには中国軍の兵士たちがお茶を飲みにやってきてもいた。
 中国との合同隊といえども、一緒に登るのはチベット人女性たちだった。しかし、普通のチベット人とは少し事情が違う。彼女らはいわば中国国家の公務員のようなステイタスで、山に登ることを職業としていた。
 そういった事情は、私にとってはとても複雑なものであり、私自身は登山を楽しむためにやってきたものの、時折やりきれない気持ちにもなっていた。こんななかで、本当に登山をしていてよいのだろうか、とすら思った。
 隣には仲のよい別のチームがいて、そこに雇わられているシェルパたちとも、私は仲良くしていた。彼らのなかには、チョ・オユーの1本向こうの谷で生まれ育って、インドに亡命したのち、現在はネパールで暮らしているチベット人もいた。本当に、私の心の中は複雑だった。毎日、心が痛んだ。

 今日、ダンサーの方々が、混乱したネパールを思いやり、「彼らには、ダンスよりももっと必要なものがあるかもしれない」というようなことを話していた。
 確かに、識字率が極端に低いネパールでは、文字の読み書きを必要としている人、教育の機会が欲しい人が大勢いる。医療機関が整わず、衛生環境も悪いために、医者、薬、清潔な飲み水が必要な人などもたくさんいる。
 しかし、そういったなかでも、たとえ今回のタイミングでの公演は断念せざるを得なくても、いずれ、芸術を通して、人と人がわかりあえたり、彼女らのダンスがネパールの人に心豊かな時間をプレゼントできたりすることが、あるに違いない。と、私は思う。

 また、会場のなかからの声に、「私たちは簡単にネパールに行くことができるけれども、ネパールに住む彼らが日本に来るのはとても難しい」という話をした人がいた。これはほかの国にも言えることだ。
 中国・成都に住む親しい友人は、いつも「本当に日本に行きたい」と言っている。彼がなぜ日本に来たいとそこまで強く思っているのか、本当の本当の本音は知らないが、彼ほど中国のなかでは裕福な暮らしをしている人でも、彼が日本に来るのは、まず難しいだろう。
 私たち日本人は、比較的自由に外国を行き来できる立場にある。そういった恵まれた環境にいることを認識して、現代において、自分にできることはなんであるのか、もう一度考えたいとも思った。

 複雑で、とても難しい問題だ。もっと考えてじっくりと書きたい内容でもあるが、あと数時間仮眠を取ったのち、大雪が降る世界へ行く予定。今回は、これしか書けなかった。

 赤い花:白い花のみなさんのダンスの、ただただその美しい身体的な表現に感動した

2005年2月 3日 (木)

仕事の合間にいろんな編集者とお話の日

今日は、『山と溪谷』3月号の校了日。2本の記事を校了しなければいけない。ほかにも、他誌の記事1本の初校を戻さなければならなくて、校正、校正、そしてまた校正だった。朝からトラブルがあって、ちょっとあたふた。予定していた、アウトドアメーカーの展示会にも行けず。

 ヤマケイ編集部のMさんが、「今回の原稿はよかった」と言ってくれてうれしい限り。しかし自分では満足していないのだ。クレバス事故について書いたのだが、もっと掘り下げて、クレバス事故の生と死の分岐点を明確にしたかった。

 夕方、ある編集部の女性陣と電話で話す。今度私が予定しているインタビューについて、いろんなアドバイスをくれたり、資料をFAXしてくださった。話がどんどん膨らんでいき、インタビューがますます楽しみになった。

 そうこうしながら、最後の記事を校正していると、ロクスノ編集部のかんちゃんから「ひとりごと」というメールが届いた。次号ロクスノにクライミングレポートを寄せてくださった読者からの写真を見て、「ドキドキした」と。うん、私は同じ写真を見て、「ゾクゾクした」。雪がべっとりとついた雪稜や冬壁の写真だ。
 次号のこのコーナーには、2本のレポートを載せる。いずれも、私をそして担当のかんちゃんを、ドキドキ、ゾクゾクと胸を騒がせてくれた内容で、とってもうれしく思っている。早く、読者の方々にお届けしたい。

 こういう、仕事の合間に届く、ちょっとしたお話、おしゃべりが、ひとりで仕事をしている私の心をやわらかくしてくれる。

2005年2月 2日 (水)

それぞれの表現

今日もさっちん・すーさん夫妻と市谷で朝食を。
 4日に南米に旅立つ彼らが、その直前に昨年の旅(モンゴル・チベット)について、原稿を書いてくれたのだ。膨大な量の写真のなかから、なんとか20枚を選び出す。難しい作業だ。残りの原稿については、さっちんが今晩夜を徹して書いてくれるそうだ……。
 
 その後、岳人3月号の出張校正。今回の記事は文字数が多くて大変。校正者の方をも悩ませてしまった。どうか、間違いがありませんように。アーメン。

 16時半に大日本印刷を脱出。まだ明るいけれど、同じく岳人に連載中の写真家の小林さんと居酒屋へ。お互いの仕事の話やチベット、中国の話をした。
 フリーランサーは、同僚と机を並べて仕事をしているわけではないので、仕事の合間にちょいと仲間と話するという環境ではない。たまに会った人と仕事の話ができるのは、貴重な機会だ。
 小林さんは、カワカブ(梅里雪山・雲南省にある山)とその周辺のことを撮り続けてきたが、彼が興味をもっている地域・対象は、もう少し広い。
 その対象について、小林さんは、あるひとつの定義づけをしていた。それがものすごくおもしろい話だった。自分の興味の対象(撮りたいと思う対象、あるいは書きたい、表現したいと思う対象)について、自分の言葉で明快な定義づけをできるというのは、その対象と真摯に関わっているからだと思う。
 
 夜遅く帰宅すると、クライミング&サーフィン仲間のピーさんから小包が届いていた。「あれ、何だろう?」と思ってあけると、水色のバラクラバ(目出帽)。
 手紙には、「スミちゃん、以前明るい色のバラクラバが欲しいといっていたので、水色で作ってみました。試してみてください」とある。
 うん、確かに言いました。無責任にも、「バラクラバって暗い色が多いんだよね。花柄とか水玉とか縞々とかあったらかわいいんじゃないのかなあ。ピアスやネックレスなど顔周りのアクセサリで印象が変わることが多いから、バラクラバの色柄も女性にとっては重要だよ!」と言ったのです。
 アウトドア用品のメーカーで企画を担当しているピーさんの見解は、バラクラバを買う人口は少ない、よって、バラクラバ専用に布を仕入れたりすることは難しい、大概、ウエアで余剰が出たもので作るから、大胆な色使いにはならない、また生産数も少ないためにメーカー側としては冒険するわけにもいかず、無難な色合いにする、というものだった。至極まっとうだった。
 そのピーさんが、私の傍若無人な発言を覚えていてくれた。これはうれしかった! 早速、鏡の前で試着。山でも使いますよお。新調したオレンジのヘルメットにも合いそうだ。
 ピーさんは、アウトドアの用品(とくにクライミングギア)の商品企画開発という分野において、ビジネスという過酷なシバリのあるなかで、表現している人なんだと思った。

 写真は市谷駅前のさっちん・すーさん夫妻。明日、決死のパッキングをして旅立ち。彼らの旅も表現活動のように私は思う。次にお会いするのは夏かしら?

050202

2005年2月 1日 (火)

つららの白妙と混乱のネパール

ぐっすり寝て目を覚ます。
 友人宅のリビングルームは角部屋でガラス窓から陽が差し込む明るい雰囲気だ。ただし、強い寒気がやってきている今日は、山梨県側の空に雪雲が見え始め、太陽の光も弱弱しい。家の主、やっさんがこのリビングのことを、「どこかのバッティみたいだろ」と。バッティとは、ネパールの山小屋。ネパールの山間部を旅行しているときは、バッティでお茶を飲んだり、食事をしたり、泊まったりする。
 なるほど、本当にバッティみたいだ。懐かしくなってきた。

 雪雲が奥多摩までやってこないうちに、と白妙橋の岩場へ。
 正面壁はツララが下がっていた。登りたいと思っていたディンプルフェイスもメチャクチャ寒そう。残りの選択肢、カワラ・フェイスへ。ダーティ・ペアを登る。
 最後は岩が冷たくて冷たくて、ホールドを保持できないような状態。退散。

 ふたりと別れて、私は御岳の「命ちょうだい中央」を経由してから帰宅。
 2日分のメールの返信やその他の細々とした仕事をする。

 バッティといえば、ネパールは大変なことになってしまった。
 私が1月29日の日記に書いたのは、ネパール政府が、カトマンズにあるダライ・ラマ14世の亡命政府の代表事務所とチベット難民福祉事務所にたいして、事務所の閉鎖を求めこと、である。
 そして今日伝えられたニュースは、ギャネンドラ国王が、国営テレビで演説し、デウバ連立内閣を解任して、自らが議長となって新政権を樹立すると発表したという内容。さらに国王は、ネパール全土に非常事態宣言を出して、憲法の一部が停止となった。
 一時的にカトマンズのトリブバン空港は閉鎖され、国際便も国内便も一切飛ばなかったという。夜遅くには、インド便が飛んだという情報も、ネパール現地から発信しているwebの掲示板にあったが、現在のことや詳細はわからない。
 電話もつながらないようだ。
 詳細はわからないし、ニュースで伝え聞いたものと、現地の状況・印象、あるいは市井の人々が感じていることは大きく違うことが多い。
 しかし、ネパールが王政に戻ったというのは事実だろう。
 私が初めてネパールを訪れたのは、1991年2月。ちょうど、前年から始まった民主化運動を受けて、王政であったネパールで、初めての議会制民主主義による選挙を控えていた。識字率が低く文字が読めない人も大勢いる。選挙の宣伝は、「木の党」とか「太陽の党」とか絵を使ったものも多かった。
 ネパールの民主主義は、形式上10余年続いたことになるが、根付くことはなかったのだろうか。

 写真は白妙橋から見た、寒々しい岩場。岩登りをしない人から見たら、こんな岩にしがみついているなんて、かなりヘンに見えるんだろうなあ。

050201

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