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2004年12月

2004年12月31日 (金)

雪の小豆島一周と除夜の鐘

朝起きると、氷雨。そしてやがて雪に……。
 昨夜ふたりは、明け方近くまでおしゃべりしまくったので、朝食のあとに二度寝。

 昼前からバスに乗って島一周に出かけた。北周りで土庄へ向かう。島の北部へ行くと、雪の降りは一層激しくなり、すっかり冬景色。それでも、土庄港に着くころにはあがった。素うどんとちらし寿司を食べたあとに、港近くの八幡神社を参拝。にっこり笑ったえびす様がいた(写真下)。

 次は南周りのバスに乗り換え福田方面へ。途中、オリーブ公園に寄る。
 小豆島のオリーブは観光用の商業的なものかと思っていたが大間違い。歴史あるものだった。最初に栽培されたのが明治41年(1908年)。当時の農商務省が、漁業発展にともなって、イワシやマグロなどを油漬加工するのに必要なオリーブ油を国内で自給できないかと考えたためだ。小豆島のほか、三重県と鹿児島県にも植えられたけれども、地中海の産物であるオリーブにとって気候風土が合う小豆島だけが、栽培に成功したそうだ。

 車窓からは、拇岳もチェック。これも花崗岩のきれいな岩場でマルチピッチのルートがあるところだ。

 夕食後、マサオちゃんと1年間を振り返る。それぞれにとって、いろんなことがあった2004年だった。

 私にとっては、中国四川省の未踏峰牛心山をトライしたことが自分にとっては大きな出来事だった。天候が悪かったことに加えて、私に限って言えば、未踏の岩壁にラインを描いて全て自分の力だけで登るには、私はまだまだ赤ちゃんのような実力しかなく、毎日毎日、情けない思いをしていた。それでも、自分の力を思い知ることができたわけだ。
 そして何よりも、一昨年秋に自分たちで見つけたラインを仲間たちだけの小さな隊で、何に惑わされることもなく、純粋にクライミングだけに専念してトライできたことがうれしかった。
 だから私は、四川では情けなくて涙する毎日だったけれど、それでもものすごくハッピーだったのだ。
 いろんなことに決別して、これからは自分の好きなように、自分の山を登っていこうという覚悟ができた年だった(って、これ以上自分勝手になってどうすんだい!?)。
 
 中国へ行く直前に、マサオちゃんは私に、「Transformation」というフラワーエッセンスをくれた。まさに、そのときの私を助けてくれるものだった。
 振り返ると、変容の一年だったように思う。
 そしてそれは、周りのみんなに支えられてやってきたことだと、実感した。

 11時過ぎ、宿のお兄さんのご好意に甘えて車に乗せてもらって、福田の雲海寺へ。小豆島には弘法大師が開いた八十八ヶ所の霊場があるが、雲海寺は八十四番。ここで除夜の鐘をついた。お兄さんは、雲海寺近くで育ったけれども、ここの鐘をつくのは初めてだそうだ。
 その後、お兄さんの案内で、近くの葦田八幡神社へ初詣。
 寺で鐘をついたあとに、神社を詣でるとはさすが日本人。
 神社の裏手には、お稲荷さんやいろんな神様が祀ってあった。スピリチュアルなマサオちゃんは、お稲荷さんのうしろの大木にうなり、「パワースポットだね」と言っていた。
 私は、ネパールのカリガンダキ奥地にあるムクチナートを思い出していた。なんだか雰囲気が似ている。ムクチナートにはヒンドゥー教とチベット仏教のふたつの寺があり、その寺を囲むように108つある牛の口から水が流れ出ていて、ある晩秋の寒い日に4000メートルの高地で私は、ネパール人の友だちであるスディールと一緒に、その口から流れ出る水ひとつひとつで身を清めたのだった。

 年が変わった真夜中に、宿に戻った。これで、お兄さんのご好意によって実現した除夜の鐘&初詣ツアーは終わり! ありがとうございました。

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2004年12月30日 (木)

吉田の岩場

宿から吉田ダムまでは歩いて10分ちょっと。そこから各岩場を目指す。
 山岳ガイドである織田博志先生(文登研=文部科学省登山研修所でお世話になったこともあり、やっぱり「先生」と呼んでしまう)が作成したトポをたよりに、岩場へ向かう。
 
 最初はトップロックから。5.9から5.10台までのルートがまとまってあり、なかなか楽しめる。ボルトの間隔も短くて、まだこの岩場に慣れていないからだにはほどよい。眺めもよく、気持ちがいい。
 そして驚くことに、鳥がたくさんいるのだ。登っていてもすぐ近くを迫ってくるようにビュン、ビュンと飛んでくる。上空ではトンビが悠々と旋回している。

 その後、下へ降りてきて、海鳴ロック、ベムロック、センターロック、京都ロック、ドリームロックを偵察。
 そして、きもちんよかロックにある三ツ星ルート「きもちんよか」に取り付く。取り付きからおもしろくて気持ちのよいムーブが続くが、ちょっと勇気がいる。そして、上部になると怖くて怖くて……敗退。完全に気持ちで負けていた。
 その上ロープの回収にはまり、2度も登り返す羽目になった。キンクしてうまく回収できなかったのだ。バカモノめ!(←自分のこと)最後の懸垂下降を始めるころには日が落ちて、手元も暗くなっていた。間違えたら一巻の終わりだ。重々確認してから下降を始めた。

 ヘッデンとつけて、急ぎ足で宿へ坂道を下りていく。口ずさむ歌は、もちろん「瀬戸の花嫁」。~~瀬戸は日暮れて、夕波小波……。日はどっぷりと暮れてしまいました。歌っている場合ではありません。

 戻ると、宿のお兄さんに「心配しましたよ」と言われてしまった。ごめんなさい。
 
 写真の左手が吉田の岩場、右に見えるのは千畳ヶ岳。

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2004年12月29日 (水)

”しまなみ”眺めて小豆島到着

友人のマサオちゃんとのクライミングツアーのはじまり。
 早朝の新幹線に乗って東京から姫路へ。姫路港から「おりいぶ丸」に乗って、小豆島の福田港に渡った。

 「しまなみ街道」というのは、なんともいい表現だ。尾道市と今治市を結ぶ西瀬戸自動車道のことをいうわけだから今回の海路とは違うけれど、まさに、瀬戸内海の島々が山並みのように重なっている風景を、おりいぶ丸からも眺めることができる。
 下船するとき近くにいた男の子と女の子の話を、こっそりと聞いてしまった。どうやら、女の子とは仕事でこの春に上京し、久しぶりの帰郷の様子。男の子は今も島で暮らしているようだ。偶然ふたりは船で一緒になり話し込んでいた。うん、なんだか里帰りの風情あっていいなあ。

 しずかな吉田湾の奥に立つシータイガーアイランドインに投宿。マサオちゃんがインターネットで見つけてくれた宿だが、なんとプライベートビーチがあり、海辺からまっすぐに桟橋が伸びていて個人所有の舟艇でやってくることもできるという、贅沢な環境にある。岡山など関西からのお客様が多いそうだ。ヴィラのような建物でお値段もお手ごろ。
 もちろん私たちは、舟艇などもっているわけはなく、福田港からてこてこと30分かけて歩いた。クライミングロープとギアが満載のザックが肩に食い込んだ。

 一息ついたあとは、早速吉田の岩場の偵察へ。それぞれの岩場の位置と大体のルートを確認して、宿に戻った。

 写真は宿の正面から撮ったもの。遠浅の海岸。浮き桟橋の先は水深2~3メートル程度。

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2004年12月28日 (火)

誌面を作る責任

日本雪崩ネットワークの出川あずささんにお会いした。
 日本雪崩ネットワークというのは、「雪山で活動する方々に雪崩についての正しい知識とマネジメント・スキルを普及させるため、研究者、山岳救助隊、パトロール、山岳ガイドなど、雪崩に専門的に関っている人々と連帯し啓蒙活動をする、非営利団体」(オフィシャルページより引用)。
 
 今回は、ビーコンに関するページ制作にあたって、出川さんに色々なことを教えていただくためにお会いした。なんと、この忙しい年末のさなか、かなりの長い時間を割いて、お話くださった。ひとえに私の勉強不足によるものが多々あるというのに。
 出川さんが、ご好意でこんなにも時間を割いてくださったのは、雪崩による事故や死傷者を少しでも減らしたいということ、そして何よりも、雪のなかで遊ぶ(スキー、スノーボード、登山など)を多くの人に知ってもらいたいという思いからだと解釈している。
 もし、私が誌面に間違ったこと、適切でないことを誤って書いてしまうと、それに影響を受ける人はごまんといるわけだ。そんなことが起こらないように、親身になって指導してくれたのだと思う。
 
 夜、帰宅。出川さんのインタビュー内容を整理し、その後、明日からのクライミングツアーに備えて、パッキング。
 

2004年12月27日 (月)

本当に終わるだろうか……?

私の仕事営業日はあと2日。本当に仕事が終わるだろうか? 上司がいるわけでもないし、誰に管理されたり職務命令されているわけでもないが、締切日を考えれば、今何をしなければいけないかは、誰よりも自分がよくわかる。

 朝一番で、プロのスノーボーダーである三宅陽子さんから、『春山』向けの原稿が届く。春の残り雪がスプーンカットになったさまを、美しい言葉で言い表していて、新鮮。文章というのは、読み手の心に残るところがたった1ヶ所でいいのだ、あれば、いいと私は思っている。その1ヶ所を創り出すことが、どんなに難しいことか。
 彼女の場合、これまで培ってきたさまざまなことが養分となり、何の苦もなくその言葉をつむぎだしたのだと思うが、それが、なかなかできることではない。

 その後、『岳人』3月号用の装備記事を作っていて、壁にぶち当たる。恐る恐る、大御所の方に電話で相談。本当に気持ちよくいろんなことを教えてくださった。原稿執筆か記事監修をお願いしようかと考え、早速明日、会っていただくことにした。
 私ひとりの能力も知識もちっぽけなもんで、何の役にも立たない。誌面は、こうやって色々な方々の支えによって出来上がっていく。心から感謝。

 夕方は、俳優で登山が大好きなIさんをインタビュー。これも『春山』向け。彼女とは共通の友人がいるために何度かプライベートで会っているし、インタビューも2度目だ。お人柄も山が好きなこともよくよくわかっていたつもりだが、今日再認識。本当に、山ヤ同士の話ができて、とっても楽しかった。ついつい乗ってきて話があちこちに飛んでいくので(私が飛ばしている)、最低限のことだけ話を引き戻して、聞いておいた。
 
 帰りの電車で『アエラ』最新号を熟読。お目当ての記事は「現代の肖像」。島﨑今日子氏による「中島みゆき」だ。彼女の著作『この国で女であるということ』は好きだし、その中の「吉田美和」は、心に残った。さて今回は「中島みゆき」。こういう文章を書ける人、こうやって人を見れる人というのは、人間の幅のある人なんだと思う。
 自宅への道すがら、文末にあったみゆきの歌詞を私も口ずさんで歩いていた。

~ファイト! 闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう
 ファイト! 冷たい水の中をふるえながらのぼってゆけ

 阪神・淡路大震災とサリン事件が起きた年のコンサートで、最後にみゆきは、被災者たちを思いながら声をふり絞って、こう歌ったのだという。

 そして、夜。いい加減いくらなんでも今日は、年賀状の宛名ソフトを起動させなければ……。一体、仕事も年賀状書きも、本当に終わるのだろうか。誰にもわからない。

 スマトラの大地震、それから津波による被害で、各地は悲惨な状態だ。11年前に新婚旅行で訪れたスリランカのある漁村の少年たちのことを思い出していた。みんな、大丈夫だろうか……。

2004年12月26日 (日)

今日も机の前

今日もマル1日、机にしがみついて仕事。昨日の続きだ。正月休みに遊ぶためには、仕方あるまい。

 自宅の一室を仕事部屋にしている。
 自宅で仕事をしていれば、気分転換や休憩時間に家事を片付けられたりして便利だね、とよく言われるが、私に限って言えば、そんなことはあまりなく、自慢できるほどのことは何もやっていない。1日中、仕事をしている日などは、疲れきって家事は放り投げたくなるときもある。
 確かに勤め人よりは便利で、洗濯物も早々に取り込めるし、ちょっとした食事の下ごしらえもできるけれど……。
 しかし、時々例外もあり、今日は、仕事の合間を縫って年末の大掃除(片手間にやる大掃除なんて、信用ならないけれど)。
 それと、先日、実家の庭から収穫してきた夏みかんとゆずでジャム作り。

 実家の庭が、私は大好きだ。あまり手入れをしていない庭で、もし実家を知っている方に、この日記を読まれたら少し恥ずかしいのだけれど。
 東京でコンクリートに囲まれたところに住んでいると、庭のある暮らしが健全に思えてくる。わが庭も、庭の大きさに見合った生態系が成り立っていると、いつも感じる。自宅のベランダで育てると元気をなくす草花たちも、実家の土に植えかえると、瞬く間に元気になるのだ。
 ゆずや夏みかんほかに、山椒の木、いろんな種類のラベンダーやミント、ミモザ、カキツバタに冬椿、木蓮の木、竹林などがある。正直言って、全種類の名前はわからない。

 2メートルぐらいのゆずの木には、毎年100個以上の大量の実がなる。これは、うれしい。それだというのに、昨年に限ってひとつもならずに(こんなことは初めてだった)、母と私を悲しませた。今年は、豊作。

 裏庭にある夏みかんの木についていうと、不思議なことに、父が亡くなった年の冬から毎年実をつけてくれる。1年目は確か5個程度だったが、今では20個ぐらいなる。

 父を亡くした後、一軒家に母一人を住ませておくのも不憫のように思ったが、もうしばらくはお互い離れて暮らしたほうがよいかもしれない。そして、これは私の自分勝手な思いなのだが、小さいころからの思い出がいっぱいあり、つつましやかな命の営みがある実家の庭はいつまでも取っておきたいとも思っている。

2004年12月25日 (土)

机にかじりつきのX'mas

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2月号(1月発売)は校了したものの、年明け早々に3月号のデザイン出しを行なわなければならない。原稿や写真、イラスト、図解など誌面を構成するすべてのものを取り揃えて(つまり、取材も原稿書きもとっくに終えて)、デザイナーさんに渡すのだ。誌面をデザインしてもらうため。
 逆算していくと、あと数日のうちにやらなければならないことは山積み。

 朝一番に、登山家の岩崎元郎さんから原稿がFAXで届く。私のような者からは想像を絶する忙しさだが、焦っていたり、時間に追われているような姿は一度たりとも見たことがない。
 もちろん、原稿もなんに不安もなくちゃんと届く。
 久しぶりの手書き原稿をありがたく受け取り、文字を追った。

 その後、『山と溪谷』と『岳人』それぞれの3月号用の準備。取材依頼、アンケートの送付など。取材依頼というのも、実はそう簡単ではなく、重要な作業だ。取材相手に、どんな記事を作りたいのか、相手から何を聞きたいのか、それはどうしてか、など的確に説明し理解してもらう必要があるからだ。結構、大変なことだ。
 さらには掲載申し込みの企画書作り。

 夏に創刊される『Packers』の原稿依頼、取材依頼も行なった。新雑誌の依頼はさらに難しい。既刊であれば、最新号を渡して雑誌のイメージや内容をつかんでもらうことができるが、新雑誌にはそれがないからだ。
 私流に解釈している『Packers』は、アメリカでいうところの『Outside』のようなもの。ここから、話題を山岳地域にだけ絞ったようなものだ。

 夕食には鶏料理を用意したし、最後はケーキでも食べて、クリスマス気分に浸ろうかなあ。

 写真は、X'masTreeならぬJoshuaTree.10月にJoshuaTree NationalPark(USA)でクライミングした際に撮ったもの。

2004年12月24日 (金)

心引き締まる出張校正

最近千葉にいい波が入る日が続いている。今日こそは早起きして御宿へ行こうと思っていたものの、寝坊……。部屋の片隅で、サーフボードが悲しそうにしていた。
 
 午後から大日本へ、『岳人』2月号の出張校正のために向かう。
 出張校正というのは、雑誌制作の最終段階で、印刷所に編集部員が集結し最後の校正を行なうことだ。この日で、誌面は「校了」となり、編集者の手を離れて印刷、配本という作業に移行する。

 1996年まで勤めていた(社)日本ユネスコ協会連盟では、当時、機関誌の出張校正があった。担当だった私は、毎月、芝浦の印刷所へ行った。4階の校正室に入る。
 当時の様子は、辞書や資料が入った重たいかばんを持って印刷所へ通ったことも、窓から入ってくる汐のにおいのする風のも、同僚と机に向かって頭を抱えながらゲラを読み込んだことも、昼食によく出かけた食堂も、校正中に慌てて方々へ電話したことも、ゲラを真っ赤にせざるを得なくて平謝りしたことも、職人である印刷所の方々一人ひとりの心意気やしぐさまでも、そして、校了後、日が西に傾くころ、開放感に浸りながら同僚と飲み屋に向かった道も(こういう日は大概、どこかに引っかかっていく)、懐かしく思い出される。
 とくに、最後の数年は事実上の編集長を任せられていたので、「校了」「責了」と書き込む瞬間のことは、はっきりと覚えている。
 以来、フリーになった私は出張校正とは無縁だった。
 その後は、「いまどき出張校正するところも少ないんじゃないの」と思っていた。
 しかし、それは私のとんだ認識違い。今でも印刷所には校正室があり、毎日いろんな編集部がやってきては校了作業を行なっていることを、最近、『岳人』連載のために出張校正に通うようになって、知った。
 
 出張校正というのは、実に独特な時空間だと思うし、大変貴重なものだと思う。外界から遮断された場にカンヅメとなり、編集者が最後に真剣勝負でゲラを読む。
 あれほど確認して、読み込んだはずのゲラも、出張校正という一種独特の緊張感ある場になると、なぜか間違いが見つかる。身が凍るようなぎょっとする過ちが見つかる。ふさわしくないんじゃないか、という表現が見つかる。いや、それは、ひょっとしたら前段階で心のどこかに引っかかっていた表現だったりするのだが、出張校正の段階になり、「それでいいのか」「本当にそのままでいいのか」「もっと考えてみろ」と突きつけられる。誰から? もうひとりの自分から? 見えない読者から? 社会から? わからない。

 そんなわけで今日の出張校正でもまた、私は、赤ペンを握ったまま考えさせられた。

 その後、ICI石井スポーツ新宿西口店へ。特に用事があったわけではないが近くを通りかかったので、看板店員である、今をときめくヒマラヤンクライマー、竹内洋岳さんの顔を拝みにいった。現在進行中の雑誌誌面の話をすると、私がまったく知らなかった知識を教えてくれたり、思いつかなかったアイディアを示してくれた。ありがたい。

 夜は山仲間のマサオちゃんの誘いで、地平線会議へ。先日原稿をお願いしたノンフィクション作家の森田靖郎さんの講演だった。彼のテーマである中国や中国人社会の話を聞けるかと期待したのだが、今回は違う方向へいった。
 以下、印象に残った森田さんの言葉(私流の解釈が加わっていそうですが)。

◆ノンフィクションは隙間産業。人のやらないところを見つけてやる。事実を積み重ねて、既成概念を壊し、自分の価値観、枠にはめていくこと。

◆インタビューでは、インタビューする側もされる側も緊張する。そういう緊張感がある場だからこそ、話し手は思わぬ名言をはく。それを引き出すという作業もおもしろい041224

2004年12月23日 (木)

だんまりの日

昨日と比較すると、人と話さない1日だった。
3月号の誌面のラフスケッチを考えたり、誌面作りのためのアンケートを依頼したり、原稿を書いたり。
 フリーランスの仕事はカレンダー通りにはいかない(いかせなくてもよい)けれど、休日になると、出版社など外部からの電話が減るので、集中して仕事ができる。

 閑話休題。
 外国に住む友人は、日本人であれ外国人であれ、まめにクリスマスカードを送ってくれる。それに比べて、私は年賀状も印刷したまま。宛名の整理もしていない。。。

 写真は夕べの食卓。
 手前右の太刀魚の煮物は、友人のお母さんから習った四川料理。花山椒や唐辛子を利かせたビリビリと口がしびれるような料理が多いなか、この品は、ほっとする味わい。魚の味噌煮を食べているよう。
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2004年12月22日 (水)

話しまくりの日

フリーライター(編集者)の仕事って、結構波がある。誰とも話さずにひたすら机に向かって1日が過ぎ、夜に仕事場から帰宅した夫をつかまえては、1日分の憂さを晴らすかのようにものすごい勢いでおしゃべりしまくるような日もあれば、今日のように、四六時中誰かしらと話をしている日もある。

 今日は、原稿依頼してあった執筆者との最後の打ち合わせ、単行本編集の打ち合わせ、Snow Diva Telemark取材の打ち合わせなど、午前中はいろんな人と電話で話していた。

 Snow Diva Telemarkは、本邦初の女性の手で作る女性テレマーカーのためのイベントだ。来月ニセコで行なわれる。このイベントを知ったそのときから、「取材に行くぞ!」と意気込んだものの、なかなか取材費が捻出できない。掲載してくれる雑誌はひとつだけみつかったが、全体の取材にかかる半額程度しか負担してもらえないようだ。ほかにも掲載誌や興味をもってくれそうなwebsiteを探し、交渉するつもりだ。

 午後からは、登山家の大宮求さんにインタビュー。1980年にパキスタンのラトックⅣ峰に登頂後、予期せぬクレバスに落ちて、クレバスのなかで4日間を過ごし、横穴を掘って自力で脱出したという経験について、話を伺った。正月公開の映画「運命を分けたザイル touching the void」と非常によく似ている。インタビューの詳細は、『山と溪谷』3月号に掲載予定。
 とりあえず、年末年始のクライミングツアーに連れて行く単行本は、「touching the void」の原作となる『死のクレバス』だろう。もう15年ぐらい前に読んだきりだ。読み返さなければ。

2004年12月21日 (火)

心の底から楽しめる人生

各山岳雑誌の3月号の取材・インタビューの依頼の電話をしたり、誌面の構成やイメージを考えたりしているうちに、あっという間に時間がたった。
 途中、私のシンクタンクであるぱーちゃんに、誌面の相談。編集者・ライター一人のアイディア、頭脳なんて限られている。実は、身近な友人や山仲間、仕事仲間、その他いろんな人に話をしながら、それぞれの考えを聞かせてもらったり、私のアイディアに対して意見をもらったりしている。深謝。

 夕方、成都に住む友人のフォンフォンと話していたら、アメリカの登山家、Fred Beckeyの話になった。アメリカの山岳雑誌『Alpinist』最新号(9号)と同誌の2005年のカレンダーにBeckeyが出ていたからだ。
 1954年にMt.Hunterを初登頂したことで知られるBeckeyは、晩年、四川の未踏峰に通い続けている。
 彼のように、いつまでも心の底から山を楽しめる人生は、本当に豊かだと思う。

*写真は、10年以上前のフォンフォンとBeckey。四川を訪れたときのもの

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2004年12月20日 (月)

それぞれの道

岳人編集部に2月号のゲラを戻しに行き、そのあとに、担当のYさんと3月号とそのほか、もうひとつの企画の打ち合わせ。自転車操業状態だ。打ち合わせのあと、冬晴れのなか、東京駅まで歩いた。歩いている最中に、3月号のアイディアがひとつ浮かんだ。こんなもんだ。何かのときに、ひょいとアイディアが浮かぶことがある。私の場合、歩いているときが多い。

 その後、電車とバスを使って千葉市の実家へ行った。いつも車で帰るので、新鮮だった。実家で過ごしたのは生まれてから結婚して家を出る24歳半まで(途中高校1年~大学4年までは不在だけれど)。そのころの私の移動手段は、主に徒歩と自転車とバス。だから、車よりもバスや歩きで家に帰るのがいちばん自然なのだ。見えてくる風景が違う。

 夜は小・中学校時代の同級生であり、学年イチのモテ男・野球少年だった浜チョが握る寿司を食べに、浜寿司へ。実家から歩いて5分。
 小学生のときから習字がうまくて、お父さんの寿司屋の「看板ぐらい書いてもいい」と言っていた彼が、いまや立派にあとを継いでいる。
 私は、カウンターで浜チョの握る寿司を食べながら、貝や魚の話やら、市場の話などいろんなことを聞き出すのが好きだ。最近は、寿司にあわせて頚城の酒蔵にオリジナルの日本酒を造ってもらっているというので、早速四合ビンをいただいた。
 さらに今回は、共通の幼馴染であり、民放の某人気番組のディレクターであるエトくんにもケータイで電話して、ふたりで話をした。プロデューサーに昇格してもよいほどの実績を挙げながらも現場主義を貫いているオトコだ。
 みんな、それぞれの道でプロとしての仕事をしっかりとまっとうしているんだなあ。私もがんばらなくては。
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2004年12月19日 (日)

虫刺されはヘビの仕業?

写真家の梶山正さんから春の剣岳の写真が届いた。今度、ある企画の誌面に掲載させていただくのだ。いつも、梶山さんの写真を見ると、胸がしめつけられそうになり、キュンとする。なぜだろう? 人の心を動かす作品を作れる人というのは、つまるところ、創作することに対して惜しみない努力をしていること、対象となるものへの深い愛情があること、これに尽きるんだと思う。

 今日は、アツシ兄貴と伊藤タイチョーと一緒に多摩川の土手を走る約束をしていたのに・・・・・・。夕べから右足がパンパンに腫れて痛い。とてもではないが走れない。
 木曜日に城ガ崎で虫に刺されたと思っていたのだが、どうも様子がヘンだ。よく見ると刺されたところには、2本(4本?)の歯でかんだような跡がある。まさかヘビだろか? 
 ファミリークラックは、登り切ったあと、林の中に入って終了点を作る。終了点作りっていつも集中してやるから、知らないうちにガブリとやられていたのだろうか? 
 そういえば、夏に藪山を登っていてヤマカガシにかまれたものの、アドレナリンでまくりのピッチをリード中で気づかなかったという話も聞いたことがある。
 私の場合、こんなにぴんぴんしているんだから、大した毒ではないと思うけれど、日曜診療の医者へ行くことにした。

 そして、おとなしくヒヤリハットの原稿執筆に励むことにしよう。

 明日、千葉にいい波が入るんだから、今日中になんとかしなきゃ。
←人生、そう都合よくはいきません。

2004年12月18日 (土)

デスクワークな1日

『岳人』2月号(1月15日発売)のゲラを校正。インタビュー先からの訂正を書き込んだり、文章を推敲したりしているうちに、ゲラが真っ赤になってきた。。。印刷所の方々、ごめんなさい。

 『山と溪谷』3月号の打ち合わせを担当のMさんと電話とメールで行なう。年末進行が始まった11月から今日まで、いや1月いっぱい、いや2月いっぱいまで大量の仕事に忙殺されそうだ。このMさんからいただいた仕事は、そういうわけで、一瞬お引き受けできるかどうか迷ってしまった。
 しかし、とても興味深い内容であり、やりがいを感じて、引き受けてしまった。またまた自分で自分の首を絞めるようなことをしてしまったかもしれない・・・・・・。
 ほか、同じく『山と溪谷』3月号の別の原稿の準備をしたり、『岳人』3月号に掲載する連載記事の企画案を作っているうちに、あっという間に外は暗くなってしまった。

 本当は、クライミングジムpump1に行ってボルダリングしたかったのだけれど、その時間はとれず、近所の公園の遊具にcrack a go go !をかけて、からだを動かした。
 crack a go go というのは、私が勝手に呼んでいる名前で、友人のヤッサンから借りているジャミングの練習をする道具だ。
彼は、今から20年ぐらい前、アメリカのクライミング雑誌の記事を見て、この道具を手作りした。木製の2枚の板から成り、縦横のサイズをねじで変えられるようになっている。これを、私の場合、公園の遊具に吊り下げて(ちょっと異常?)、いろんなサイズ、形状のクラックに見立てて、ジャミングの練習をするのだ。結構痛い。
 板の部分には、当時友人が憧れていた世界の名だたるクラックルートの名前が書かれている。そのひとつをとって、私はこの道具をcrack a go go と呼んでいるのだ。

 まだまだデスクワークは山積み。今日は遅くまでかかりそうだ。
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2004年12月17日 (金)

インタビューのあとで

午前中に雑務を片付けたあと、田部井淳子さんのオフィスへ向かった。『春山』(別冊岳人・東京新聞出版局 3月1日発売)のインタビューのためだ。お会いするのは数度目、インタビューは2度目だ。
 インタビューのあとのお話も、強く心に残った。こういった、誌面に掲載しない部分、あるいは書けない、書ききれない部分にも、おもしろさがある。そういったとこに接することができるのは、私のような仕事をする人間の役得なのかもしれない。

 田部井さんといえば、”エベレスト・ママさん”。1975年に女性で初めてエベレストに登頂した登山家だ。その後も世界各地の高峰を登り続け、92年には女性初のセブン・サミッターとなった。もちろん、マスコミが手放すわけはない。その華々しい登山歴が人々の印象に残る。
 しかし、実際の田部井さんには、もっともっと深い魅力がある。
 以前から感じていたことは、ヒマラヤの氷雪嶺から日本の里山まで、多種多様な自然を心から愛しているということ、季節のうつろいや、小さな自然の機微にまで心を動かす方でいらっしゃるということだ。
 そして、今日のインタビューのあと・・・・・・。田部井さんの最近の登山の話を聞かせてくださった。さらには、私自身の登山についても、耳を傾けてくださった。

 登山――それが有名な山だったり、世界一高い山だったり、あるいは有名な登山家だったり、大きな組織で登る場合だと、周りがその動きに注目する。それはそれで仕方がないことだし、注目する気持ちもわかる。
 しかし、登山の本質はまったく別のところにある。
 
 登山は、所詮、至極個人的なものであり、それぞれ登る人の心の中にのみ存在するものなんだ。
 
 田部井さんもまた、世間の目に何も惑わされることなく、自分の登りたい山を自分で見つけ、大きな組織や外部の力に頼らず、自分の力で登っていらっしゃる。
 無論、そんなことができない時代もあった。組織登山でなければ、登れない時代を田部井さん自身が経験してる。私だって、組織的登山がよくないと思っているわけではない。
 ただ、どういったスタイルであろうと、山に登るという行為、そこから得られる感動というのは、登山者の心の奥底に存在するものなんだと思う。本人の心の揺さぶりの中にのみ、本人の登るという行為が存在するんだ。

 田部井さんから、登山が心から大好きなんだということがひしひしと伝わってきた。こういった、お会いしてこそ感じられるご本人の魅力や思いを、なんとかして文章に表すのが、私の仕事だ。人の心の中に存在する、その人の登山というものを言葉にするのはとても難しい作業だが、なんとかできる限りの誠実さをもって、文章にしたい。

 最後に、「あなたは文章を書ける人なんだから、自分自身の登山を自分の言葉で表しなさい」と助言してくださった。本当にありがたい言葉だった。


 夜は横断山脈研究会の忘年会へ行く予定が、いつまでも仕事が終わらず。ドタキャンという最悪の事態になってしまった。夜遅くやっと仕事が終わり、恵比寿で浦霞をグイっとやりながら、脂ののったカンパチを食べて、深夜帰宅。
 仕事部屋に入りメールを開くと、成都の友人から「最近大好きな音楽」といって、ウズベキスタンの歌手Yulduz Usmanovaの「Schoch Va Gada」が届いていた。偶然にも私も好きな歌だ。静謐ななかにある強く激しい思いのようなものを感じる歌い手だ。もの悲しい心のざわめきが伝わってくる。

2004年12月16日 (木)

クラックぐいぐい登り

今日から、このCGIBOY日記帳を使って、日記を書くことにした。ホームページを立ち上げようとツラツラ考えているうちに、あっという間に月日ばかりが流れていく。このままではイケナイ! まずは、日記だけでも・・・・・・。ということだ。
 登山のこと、クライマーのこと、ヒマラヤのこと、自然環境のこと、そしてここ1、2年はチベットや中国のことを雑誌に書いている。フリーランスライターというと、「スゴイですね」「カッコいいですね」とよく言われるけれど、実際は、実に実に地味な仕事だと思う。取材が終われば、ひとりで机に向かい、ひたすら原稿書き。孤独な作業だ。そういった、この仕事の実情や、取材の話、私個人の登山やサーフィン、旅の話など、フリーランスライター、山岳ライターの毎日を綴っていく。

 今日、2004年12月16日がスタートだが、年月をさかのぼって、書き溜めた日記も少しずつアップしていく予定。

 さて、まるで春のような陽気の今日、かなっぷと一緒に、城ガ崎(静岡県)へクライミングに行った。本当に暖かくて、道中、吉浜ではいつになくたくさんのサーファーたちが波乗りをしていた。うねりがちょうどよく入って波がいいようだ。

 ファミリークラックは、週末になると大混み合いの人気エリアだが、さすがに平日とあって、今日は私たちふたり以外に、山岳ガイドのSさんのグループがいるだけだった。
 最近、クラックが楽しいと思えるようになった。まだ簡単なルートしか登れないが、自分でプロテクションを決めていくのも楽しいし、なんだか、クラックを登っていると元気になれる。前向きな気持ちになって(って、気持ちが後ろ向いちゃうとクライミングって、とたんと登れなくなるんだけれど)、ぐいぐいと登っていくのが快感。
 ちょうど、去年の今頃も城ガ崎に通っていたなあ。去年よりマシになったじゃん!と思える点もあれば、あぁ、ちっとも変わらないじゃん・・・・・・という点もあり、なかなか複雑な心境。

 日がどっぷり暮れるまで登り、伊東温泉につかってきた。
 潮騒をバックに携帯電話で某雑誌編集部に電話。ゲラが出稿されているかどうか確認した。担当のYさん、波音がうるさくて声が聞き取りにくかったでしょう・・・・・ごめんなさい。

*写真は、クラッククライミング用のテーピングをした手。下手な私はぐるぐる巻き。

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2004年12月13日 (月)

気心知れた忘年会

母校大学山岳部の同世代で忘年会。
 一昨昨日に呼びかけたにも関わらず、12人出席。といっても、東京在住メンバーだけなのだが。
 兄弟のような付き合いとは、まさにこんな仲間のことをいうのだと思う。

2004年12月12日 (日)

アナログとデジタルビーコンを体験

ダイヤモンドダスト初滑り2日目の企画は、ビーコントレーニング。ビーコンの老舗オルトボックスの輸入代理店であるマジックマウンテン社から粕川要治さんがいらっしゃり、指導にあたってくれた。アナログビーコンのf1、デジタルのm2とx1の3種類を用意してくださり、私たちはそれぞれを体験することができた。

 数日前、山仲間がデジタルビーコンを経験し、「僕は買い換えるぞ」と宣言していたので、楽しみだった。最終的にf1に慣れ親しんでいる私が出した結論は、買い替えは無用。このままf1でトレーニングを積みましょう!ということだった。
 確かにデジタルは簡単で早い。x1なんて、これから始める人には超お勧め。m2はアナログに慣れた身からすると、画面が少々複雑だし、低温での画面表示にも不安を感じる。まあ、その場合はアナログに切り替えればよいのだけれど。
 さまざまなスペックがバランスよく整っているのが、結局のところアナログのf1なのではないか、と、元来アナログ人間の私は思ってしまった。
 
 ビーコンについては、他メーカー含めて、近いうちに山岳雑誌で特集をしたいと準備を進めているところだ。

2004年12月11日 (土)

2年ぶりの初滑り

春水姉が主宰するダイヤモンドダストというテレマークスキースクールの初滑りにおじゃました。彼女がダイヤモンドダストを始めて、何年になるだろう?3、4年ぐらいか。

 もう7年以上前のことだが、日本におけるテレマークスキーの先達者のひとりである川上敦さんが、「テレマークを教えて食ってこうって考えたら、血を吐くような思いをしなければいけない」と言っていた。
 この数年で日本のテレマークを取り巻く環境は大きく変わった。人口も増えたし、アルペンをやっていた人が興味を持って始めるようになった。一般のアルペンスキーヤーだけでなく、プロのアルペンスキーヤーもだ。彼らのなかには日本テレマーク協会(TAJ)の公認指導員のライセンスを取って指導にもあたっている人もいる。
 メソッドも飛躍的に進歩した。10年前に私がたどった道のりなんて、いまや大きな回り道とみなされるだろう。道具もプラブーツやファットスキーなどガチガチのものが出てきた。当然、滑りのスタイルも変わってきた。

 あ、話がそれてきた。つまり、テレマークの環境が変わり人口が増えたと言えども、やっぱりテレマークを教えて生活していくのは大変なことに違いない。そんななかで、日本人女性初のテレマークスキーのインストラクター・ガイドとしてがんばっている春水姉は、やっぱりすごい。テレマークへの愛なくしては、語れないのだ。これから彼女にとっては過酷なシーズンが始まるわけだけれど、がんばってくれ。
 
 初滑りは志賀高原熊の湯。人工雪を降らせてなんとかリフト2本を途中まで動かしている状態。ほかのスキー場なんてもっと悲惨らしく、いろんなエリアの人たちが志賀高原に集中した。おまけに修学旅行生までいて、ゲレンデ内の人口密度はめちゃくちゃ高かった。

 私自身について言うと、なんと昨シーズンは1日も滑っていない。あんなに滑ることが好きで、40日ぐらいは滑っていたというのに。理由は、登りたい山があって、そのためにクライミングに専念していたから。これっぽっちも滑りたいなんて思わなかった。不思議だ。自分がこんなに極端な人間だとは思いもよらなかった。
 2年ぶりのスキーは心配だったが、思いのほか滑れた。しか~し、だめな点はダメ。春水姉からも、後ろ足の押さえが足りないことがターン時の同時操作を妨げていることや、腹筋が足りていないことが滑走の安定性を欠いていることを教えてもらった。うん、その通りなんだよ!

 スキーって大好きなんだけれど、悩む。滑るたびに、もっとうまくなりたいと思って、自分の足りない面が次々と見えてきて、それを克服するためにがんばるわけだけれど(だって、その先にめちゃくちゃおいしいパウダーがあるんだもん)、そう簡単には克服できない。そして悩む。やがて人生最大の悩みにまでふくれあがるのだ(私の場合・・・・・・)。
 やばい、その病気が始まってしまった。

2004年12月 9日 (木)

城ガ埼 Season in

フクさんと、ヨッシーにマエバラさん、かなっぷと私の5人で城ガ崎フナムシロックへ。
 久しぶりの城ガ崎の岩の感触にちょっと緊張。

 お目当てのパープルシャドーは、潮でクラック内部が濡れていたためにリードする気になれず。トップロープで登った。
 
 あいにくの曇り空で、城ガ崎の魅力のひとつである青い海原は、今日は色がさえなかった。写真は晴れ渡った日、ルートの終了点から海を眺めた図。

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2004年12月 6日 (月)

アンダーウエアテスト開始

『岳人』で、2005年の1年間、「岳人の山道具百科」という連載を担当している。道具に関することを色々詰め込んだ6ページの企画だ。
 2月号では、アンダーウエアを特集する予定。ウール、化繊などさまざまなアンダーウエアを7種類選び、メーカーから貸し出しをお願いした。約2週間かけて、いろんな形で試着をし、インプレッションを記事にするつもりだ。

 登山用の装備を誌面で紹介する場合、写真を見せる、値段や重量、素材などの数字的データを見せる、機能や特徴を言葉で伝える……といったところだか、編集者が実際に使ってみたところの”インプレッション”、使い心地、手ごたえ、感想を、編集者の主観も混じりながらも伝えることが、結構重要なのではないか、と思っている。
 客観的な数値データも重要だが、それだけでは見えてこないものもあるからだ。

 今回のアンダーウエアについていうと、肌に直接ふれるものだけに、個人的趣味、嗜好が大きく影響すると思う。着たときの肌触り、汗でぬれたあとの感触、これらをどう感じるかってかなり個人的なこと。

 テストの方法は、エアロバイクやジョギングによって汗をかき、アンダーウエアもぬれた状態にして、外の風(自宅近くの江戸川土手)で軽いジョギングを行なうこと、睡眠中に使用すること、この北向きの暖房ナシの仕事部屋で仕事中に着用すること(これは着心地感覚をみるため)、できれば数回のクラッグでのクライミングで使用することだ。
 厳密に7種類を同じ条件で比較することは難しい。私には不可能なので、あくまでも、編集者である私の感覚的なレポートということになる。

2004年12月 4日 (土)

空っ風の湯河原幕岩

母校大学山岳部が週末を使って雪上訓練をやる予定だったが、どこも雪不足。富士山は8合目以上にアイスバーンがあるだけ!などというきわめて雪訓に不向きな状態だった。あきらめて、湯河原幕岩でロープワークの練習を行なうことになった。
 コーチを務める夫の手伝いとして、参加した。
 セルフビレイ、トップのビレイ、セカンドのビレイ、懸垂下降(アンカー作りから荷物を背負っての懸垂下降、下降中の仮固定など)などを行なった。
 学生の参加は男子4人。
 
 私もとうとう、下手すると、彼らの親御さんとの方が年が近いような年齢になった。大したジェネレーションギャップは感じないが(と思っているのはこちらだけ)、人に教えるというのは本当に難しい。物事をわかりやすく順序だてて説明すること、相手の成長度合いに合わせること、相手の性質や技術などを見極めながら適切に伝えること……。
 私は、まだまだ未熟者だ。

2004年12月 3日 (金)

お顔を拝見しての原稿依頼

ノンフィクション作家の森田靖郎さんに、原稿依頼のためにお会いした。初対面だ。

 私からお願いした原稿は、『岳人』という登山専門の月刊誌(東京新聞出版局)の別冊にあたるものが年に3回でているのだか、そのうちの1冊『春山』(3月1日発売)に掲載することになる。森田さんは、文化大革命時代から中国やチベットへ通い、文化大革命、天安門事件、改革解放、さらにはアメリカや日本の中国人社会についてルポルタージュしている。それからすると、今回私がお願いした原稿の内容は、専門外になるのだか、森田さんのとってもお好きな話、ご専門と同じぐらいこだわり続けていらっしゃる(と私が実感している)話を書いていただくことになった。
 内容は、掲載誌発行後のお楽しみです。

 前日、知人から教えていただいた森田さんの仕事部屋に電話し、留守電に簡単な用件を吹き込んだ。その後、ご本人からコールバック。「電話で話すより、お会いしたほうが手っ取り早い」というご提案があり、渋谷の喫茶店で、2時間以上も話しこんだ。
 かなりお忙しい執筆スケジュールのようだ。加えて、今は年末進行真っ只中。そんなときに、「電話よりも会ったほうが、話が早く済む」という発想は、すばらしいと思った。

 私は、自身で執筆するほかに、編集の仕事もやる。最近の原稿依頼は、電話どころかメールで済ませてしまうこともある。そのほうが、単純に所要時間だけを計算したら短くて済むかもしれない。
 しかし、しかしだ。会って話さなければ伝わらないこと、わからないことはたくさんある。とくに初対面だった森田さんとは、お会いして本当によかったと思い、森田さんのご提案に感謝している。
 
 2時間余りの間に話したことは、ほとんどが、鮎釣りの話。ほかに、岩魚と山女とアムール川のチョウザメの話が少々。私は釣りは少ししかやったことがないが、釣りは、魚とのコンタクトだと思っている。その点において、森田さんの話には大いに共感するところがあり、時間があっという間に経ってしまった。
 最後に慌てて、原稿の字数と締切日をお伝えした。

 「会って話したほうが手っ取り早い」という森田さんの感覚は、実にまっとうだと思う。会えば、お互いにどんな人かわかるし、雑談でもするうちに、原稿のアイディアが浮かんでくるかもしれないし、その後、入稿や編集などの段階で、相手の顔を知っている、直接話したことがあるっていうだけで、物事がスムースにいくこともある。
 だから、結果的に、会うというのは、最良の手段だと思う。
 
 2ヶ月の長きにわたって私の頭を悩ませ続けた中国の山岳雑誌『山野』への原稿執筆についても、同じだった。私が日本語で書いた原稿を、中国人の友人が中国語に訳してくれた。それを、編集者が編集する。いろんな行き違いがあり、時に私は、友人にも編集者にもひどく腹を立てた。でも、ある日、編集者と直接話す機会を持つことができた。これがきっかけとなり、私は彼女に好感をもつことができたのだ。

 人間って生身の生き物。やっぱり直接コミュニケーションをとって、お互いを理解するのが大切なことだと、つくづく思う。

 最後にもうひとつ。森田さんにお会いして発見したこと。右手中指に、立派なペンだこをお持ちだった。いまどき珍しい。こんな発見も、私が、仕事の相手、原稿を書いてもらう大切な執筆者への理解につながるにちがいない。

2004年12月 2日 (木)

裏山の旅

 モンベルクラブ渋谷店で開かれた、廣田勇介くんとUmafilmの面々による、スライドとビデオとトークによるショーに行ってきた。ヒロスケも、Umafilm代表でビデオカメラを回すユッコチも、一番派手なライディングをしているスノーボーダーのてっちゃんも、私の大切な友だちだ。
 冬の間、彼らは白馬山麓の古い民家で暮らしている。ほかにも滑り好きの人たちが日本各地から集まってきて共同生活をしているのだ。滑り手にとって最高に魅力的なフィールドである後立山を題材にした映像を、ユッコチらUmafilmが作っている。ヒロスケはスチールで撮っている。
 
 今回は、昨シーズンにヒロスケが撮りためた仲間たちの滑りの写真や後立山の写真、それにユッコチの3作目の作品となる「LANDMADE3」のお披露目だった。
 
 LANDMADE3の映像を見ていて、ユッコチが4年前に知り合ったときと同じ重たい大型のビデオカメラを使っていることを知った。なんだかうれしかった。当時、お金を貯めてカメラを買い、デナリのエクスペディションに備えたことを思い出した。あのころから志はちっとも変わっていない。今でも、あんなに重たい機材を持ち上げ、滑り手がもっともカッコよく見える尾根を探し、ひとりで登っていくんだなあ。そして、息を呑んで撮り、終えると、ひとり静かにスキーを走らせて麓へ下っていくんだ。

 LANDMADEの1作目は、彼女らしい抑制の効いた作品だったと思う。私は、撮り手である自分自身の存在を消したかのようにして相手に近づいていく、その手法に惹かれた。
 昨年作ったLANDMADE2には感動した。ピンクに染まる朝焼けの中を滑る人たちを撮りたいと一心に山に通った。空がきれいに染まるときもあれば、不発のときもある。それでも、滑ることが好きでたまらなくて白馬にやってくるスキーヤー、スノーボーダーたちの日常と魂を追った。 
 そして3作目。すばらしい! 何がすばらしいって年々前に進んでいることだ。年々いいものを作り上げるようになっていることだ。これってなかなかできない。
 「白馬をパウダーで滑りたい」というだけの、とてもわかりやすいシンプルな思いで滑っている仲間たちへの、さらには滑ることへの、ユッコチの深い愛情があふれている作品だ。
 ビデオカメラも仲間と2台で回すようになり、映像としてもますます充実してきた。

 てっちゃんのフレンチアルプス・クルト北東壁滑降の映像も刺激的だった。

 彼らに接すると、いつも清清しい気持ちになる。それは、何の気取りもなく、自分たちのやりたいことを、純粋な気持ちで具現しているからだと思う。
 ヒロスケから届いた、今回のショーの案内メールには、こうあった。「柏さん、中国クライミングからお帰りですか? 私たちはそれに比べたらはるかにスケールの小さい裏山の話ですが、ぜひ来てください」。
 とんでもない! 裏山に最高のフィールドがあるじゃないの! 裏山に舞うスケールのでっかい話をたくさん聞かせてもらったよ。ありがとう。
 彼らの創作意欲や、滑りに対する愛情に大いに刺激され、10歳年下の若い友人たちに心から感謝した。

2004年12月 1日 (水)

やる気にさせること

 『岳人』2月号の取材で、エバニューとモンベルを訪ね、さらには、ロストアローには電話で長々とインタビューさせてもらった。1日に3つもの話を聞くと、さすがにおなかいっぱい。これからじっくり消化しなければいけない。
 話の内容は、それぞれの社のアンダーウエアについて。どんな繊維を使って、どんなデザインで作っているのか、縫製はどうしているのかなど、ようはそれぞれのアンダーウエアのウリ・ポイントを聞いたのだ。

 モンベルは、東京営業所広報室のWくんが対応してくださった。彼とは山岳会が一緒なばかりか、入社当時から知っている。もう15年ぐらい前か。。。
 モンベルは大阪に本社があるが、東京営業所で広報を担当しているのはWくんただひとり。
 話を聞くに、いくら彼の専門のことといえ、私の知らないことをたくさん話してくれて、興味深かった。どうやって、商品を企画しているのか、どうやって繊維を選んでいるのか、さらに開発を進めていくためにどんな方法で何をフィードバックしているのか……。なかなか誌面には書けない内容もあったが、話を聞いている私にとっては楽しかった。
 同世代の立派な仕事ぶりに触れると、俄然こちらもやる気が出てくる。

 帰宅後、わずか数日前に頼まれた、中国人が四姑娘山に初登頂したことに関する短いコメント記事を書いた。これは、中国登山協会が発行する山岳雑誌『山野』に頼まれたもの。『山野』に書くのは、先日の山野井泰史さんの記事に続いて2度目。
 私のほかに、四姑娘山に初登頂した日本人の方からも短い記事を書いてもらい、それを私がドエライ英語に訳してメールで送信。
 そのあとは、メッセンジャーを使って先方の編集者と打ち合わせ。
 先方にとっても英語は外国語。なかなかやりとりがもどかしいときもあって、彼女はすぐに絵文字を使ってくる。「にっこりマーク」はよくわかるが、「バラの花束」を出されたときは、なんと応答してよいものやら……。

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