2017年4月24日 (月)

ゲラを読む体力

書き手や編集者にとって必要な能力のひとつに、「読む力」があるのは間違いない。読む力がなければ、書けない。

かれこれ10年近く前になるが、単行本を校了する日のことが忘れられない。
担当編集者と、編集部で夜通しゲラを読み続けた。
私よりもはるかにキャリアがあるから、当然といえば当然かもしれないが、圧倒的に読むのが早かった。早いだけでなく、修正すべき点をもらさずに拾い上げてきた。
それも「読む力」のひとつである。
つくづく、私はまだまだだと思ったときだった。
 
そして今ならさらにわかる。私よりも一回り以上年上であるから、当時でも今の私よりも年上だ。歳をとると、集中力を持続できる時間が短くなる。読むにも体力が要るし、集中力を持続するにも体力が要る。
その編集者は、いつも昼休みに編集部の周辺をジョギングしていて、抜群に体力のある方だったが、それにしても、あのときの集中力はすごかったなあと、今でも思う。
久しぶりに、本一冊のゲラを抱え上げ、「この紙の重さが好きなんだよな」と悠長なことなど言っていらない。
数百ページに及ぶ分厚い翻訳本上下巻のゲラを読み通したのは、そういえば2年前のいま頃か。
ゲラを読む力、集中し続ける力を、出さなければならないけれど、どうやって力を出すのかちょっと忘れてしまった。ゲラを読み始めて、ようやく思い出し、エンジンがかかり始めたところ。
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テントむし山旅プロジェクト@弘法山

これからテント泊を始める方々を対象に、テント泊の道具の説明やテント設営などについて話したり、実践したりしながら、山歩き。
参加者13人と、北村ポーリン+私で賑やかなスタートとなりました♪ 弘法山は10日も経つと、葉桜になり、林床の花の顔ぶれも移り変わっていました。

次回は、5/21-22の明神ヶ岳です!
今年は、「世界の山のある街のお菓子シリーズ」と題して、色んな国のお菓子をお持ちできるようにしようかなって思っています。今回は、シャモニーの街で食べたフランを作ってみました。次回は、アイガーのあるグリンデルワルドか、ヒマラヤをかかえるチベットの仏教菓子か、考え中です。

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2017年4月17日 (月)

DVD『UTMF2016』を観る ~サンゲ・シェルパ

たへんたいへん遅ればせながら、『UTMF2016』のDVDを観た。
昨年9月に開催されてもので、私は現地へ行き、Advenutre Divasで招聘したサンゲ・シェルパ(ネパール出身、フランス在住)を取材したり、レースの翌々日には東京で、サンゲを招いて公開インタビューのようなトークライブを開催した。
ジャケットデザインにあるように、雨、雨、雨のレースだった。
その全容や選手たちの頑張り、スタッフ達の苦悩など、あらためて見渡せるような映像だった。
そして、サンゲが、レースを心底楽しんでいる様子や、エイドステーションの度に郷土料理を味わっている姿も沢山映し出され、ホントにサンゲは朗らかだなあと思った。
それは彼の気質であり、彼のレーサーとしての強さでもあった。
 
DVDには、東京・さかいやで開催したサンゲのトークライブの様子も収められていた。
レース中に折れたポールで、サンゲが横笛を作り、ネパール国民の愛唱歌「レッサムフィリリ」を吹いている。
シェルパは横笛が好きで、たけで手作りしたり、いつも愉し気に吹いている。サンゲにきくと、彼自身は放牧に出かけた時によく吹いていたと話していた。
「レッサムフィリリ」は、ネパール人によくよく親しまれている歌である。ネパールは多民族国家であり、歌詞は公用語であるネワール語のほか、色んな民族の歌詞が沢山ある(私もとても全部は聴いたことがない!)。
どの歌詞も、ネパールという土地、自分たちの民族、家族、愛する人たちを思い歌ったものだ。
 
そんな「レッサムフィリリ」の曲を載せて、スタッフの方々がUTMF1週間後にコース整備をしていた様子が、DVDの最後におさめられていた。
雨水が引くと、コースがどれほど大変なことになっていたのか改めてわかることもあったし、選手とスタッフ皆さんの思いが詰まっていて、そんな心情が「レッサムフィリリ」の音色に、なんだかぴったりだった。
 
*トークライブで、サンゲが奏でてくれたのは、次の2曲。
・「レッサムフィリリ」

・曲名不明
どんな曲なのかサンゲに尋ねると、「少し哀しい曲」と。
遠くに働きに出たお父さんが、残してきた家族のことを思って歌ったもの。「モンスーンになったけれど、屋根から雨漏りはないか」とか、そんな(かなり具体的な)歌詞があるそうだ。
シェルパは、ヒマラヤの黄金時代を支えたころからずっと、いわゆる出稼ぎ民族だった、そして今でも(と思う)。他国、他のカルチャー、他民族のところへいって働き、生きてくというたくましさや幅をもった民族。だから、この歌もシェルパの歌なのかと思ったけれど、ネパリだそう。
こんな選曲も、彼らしい。
 
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2017年4月10日 (月)

お得な同期

体育会は年功序列が厳しいとか、それは生年ではなく入学年、いや入部した年によるとか、色いろ言われるけれど。そしてそれが、大学を卒業してはるか経っても、根付いていくともいわれるけれど。ネガティブな意味ではないと思う。
先日の酒の席で私が、「先輩は後輩を選べませんものねー」と言ったら、「部下は上司を選べないって、会社入って思ったよ」と返されたけれど、それほどお世話になった存在だから、やっぱり先輩は先輩なんだ、何十年経っても。
 
けれど、ちょっとお得なコトもある。
私の場合、一年遅れて入学したから、同期はひとつ年下。同い年はひとつ上の先輩たちだった。そのせいか、あるいはこちらの一方的感覚かわからないれど、ひとつ上の先輩たちも、なんだかミョーに近しい存在だと感じている。
当時の同期は、ちょっとライバルちっくなところもあるが、それとはまた違う感覚。けれどやっぱりひとつ上の先輩たちが話す様子をみていると、同期は彼ら同士であって、私は同期じゃないんだなとも思ったり。
たった4年間の間に確立された関係だというのに、それがそのまま続くのも、なかなかないことだ。
 
翌朝、実家の庭からとってきたカメリアが一輪、床に落ちていた。
友だちが来る日まで、もつかなあ。
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2017年4月 7日 (金)

ISG石井スポーツ エベレスト&ローツェ登山隊2017

4月3日、「ISG石井スポーツ エベレスト&ローツェ登山隊2017」の記者会見と壮行会があり、司会をさせていただいた。
90人以上の方々が集まる賑やかな会。登山隊のメンバーは荒川勉社長、奥田仁一さん、平出和也さんの3人。
昨年10月に社長に就任した、いわゆる「たたき上げ」の荒川新社長の素顔や、なんでエベレストだけでなくローツェまで?っていう話、最年少の平出さんのあっぱれな発言など、私も来月発行の『THE EARTH』に書いたので、ご覧ください。
今日ご来場のプレスの方々も、あちこちに書いてくださると思います。
荒川社長の芯の強さがどこにあるのか、長年登り続けてきた奥田さんと平出さんがどんだけカッコいいのか、この肉声をホントは多くの方々に直接聞いていただきたかったほど、今日はとってもいい会だった。

また、ロストアロー社長でもある坂下直枝さんが、乾杯の挨拶の時、ビジネスマンが遠征に出かける際のふたつのポイントを、ご自身の経験に基づいて話していたのも印象的だった。
彼がご自身の登山を語るときに、「隔絶感」という言葉をよく使ってきたと(私は)思yが、そういう隔絶された場所だからこそできる、人間の思考について。
マジックマウンテンの国井治社長は、まったくべつのはなむけを差し出していた。
長年、ビジネスと登山を両立されてきたおふたりの重みのある言葉だった。
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Women's Sikimo Project @ AKIMAMA

「AKIMAMA」というアウトドアにフォーカスしたwebサイトに、「Women's Skimo Project」について書きました。

シャモニーからターニャ達がやってきて、白馬と北海道・東川で女性のスキーヤーたちと交流した話です。
Skimoって、日本では山岳スキーレースのイメージが強いですが、ターニャ達に尋ねたら、山岳エリアでおこなうスキー全般を指すのだと。

写真は、赤井川のニキータこと、二木亜矢子さんです!
すっごく雰囲気のある写真を撮る方です。
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                                 Photo by Ayako NIKI

2017年4月 4日 (火)

ハブなポイント

山の春は、ことさら嬉しくなる。
日差しが柔らかくなり、日が伸びて行動時間も延ばすことができる。
明るい雰囲気で、開放的。
雪解け水の流れる音にも春のザラメ雪にも、心が躍る。
スキーが好きな人たちは、どうしてこぞって、パウダーというのだろうか。
パウダーを滑るが下手だから、やっかみなのかもしれないけれど、私はザラメ雪ほど、幸せを感じることはない。
桜吹雪が舞うような、フィルムクラストというのは、経験したことがないので、わからない。こちらは憧れ。
 
そんな春うららかな日々に、東京にいることがもったいない気持ちにもなる。
東京に住んでいる利点って、映画や音楽、美術、舞台などの芸術に接する機会が多いことだろうか。あとは大きな本屋さんもある。
けれど、そんな利点はさらさら活かすことなく、生活している。それも、もったいない。
ゆいいつ、活かしている利点といえば、どこに行くにも総じて便利であるということ。日本各地を走る新幹線に乗るにも、羽田や成田から飛行機を使うにも、便利だ。
 
自分が利用するにも便利であれば、人が利用するときに、ちょいと会いに行くにも便利。
山をテーマにしていると、インタビューする相手や打ち合わせをする相手の多くは、山の近くに住んでいる。そんな彼らでも、一度東京に出てきてから、東北新幹線に乗るとか、羽田や成田からあちこちの山に飛ぶとか、そんなタイミングがある。
自宅から、ふたつの空港も東京駅も近いこともあり、その隙間時間をめがけて
、会いに行くことが多い。
東京駅だったら、新幹線乗り場すぐ近くのコーヒーショップか、京葉線側のカフェ。
空港の定位置は決まっておらず、私もフライトするタイミングだったら、どちらかの搭乗口近くのカフェとか、あるいは互いのカードがうまくいけばラウンジ。あるいはゲート外のバールのようなところだったり。
乗車、搭乗前の短い時間を使っての打ち合わせに、最近実り多いものが多く、連日の空港通い。
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2017年4月 2日 (日)

紅茶

コーヒーが好きになったのは、ここ数年のことだ。
以前は、一緒に暮らしていた夫が、毎朝コーヒー豆を挽き、コーヒーを二人分淹れてくれても、最後まで飲まない日もあったぐらいだ。皮肉なもので、いまでは自分で自分にも、豆を挽いて淹れるようになったけれど。

山麓の村にあるコーヒー専門店、ここも開店した頃から通っていたが、店主夫妻と親しくなり、個人的に一緒に出掛けるようになったのは、この1、2年。仲良くなったことと、コーヒー好きに関連性はないけれど、時期は近い。
なんとコーヒー専門店に来て、チャイをオーダーしていたという
者が……、いまでは、「今日は、私が淹れてもいいかしら?」と、プライベートタイムには、素人がコーヒー専門家相手に、コーヒーを淹れるという図々しさ。
 
留守が多い分、東京にいるときには、遊びに来てくれる友人、泊まりに来てくれる友人が続く。友人にも、コーヒー好きが多い。泊り客の場合、朝の豆を挽く作業は、ほとんど友人に頼む。コーヒーを淹れることが好きな、得意な友人の場合は、最後まで全部お願いする。
 
コーヒーの淹れ方を色々習ったり、教わったりしたけれど、結局のところ、アットホームな場では、「人に淹れてもらったコーヒーほど美味しいものはない」という論に落ち着いた。

そして先日、クルマの中で。
ロングドライブに備えて、インター手前にある美味しいコーヒー屋さんで、テイクアウトしたあと、助手席のコーヒー好きの友人が、「紅茶って淹れるのが難しいよね?」と突然、つぶやいた。
「急須で淹れても、ダメでしょ。ティーポットで淹れているの?」と聞くと、友人は「そんな本格的なものではないんだけれどね」と。湯温のころ合いも、蒸らしも難しいという。

別の友人宅の向かいにある美味しい紅茶屋さんで、茶葉を買ったまま、冷凍庫に眠らせてあることを思い出した。そして、ティーポットが割れたあと、場所をとるという理由で買い足していなかった自分が、なんだか恥ずかしかった。

亡父は、おひつのお米を美味しくよそうことと、日本茶を上手に淹れることにだけは、口うるさかったなあとも、思い出した。
結局は、客人をもてなす心。
我が家にはティーポットがないので当面、日本茶かコーヒーになるけれど、この春は、紅茶もお出しできるようにしたい。

2017年3月31日 (金)

しっくり

東京に戻ると、家の裏の桜並木の花がほころんでいた。
桜は、花が開く前の遠くから並木をみると、ぼわーっと一面ピンク色が漂っているような頃と、 美しすぎて恐ろしさすら感じる満開の夜と、葉桜が好き。
今日は曇り空だったけれど、もう寒さはなく、薄いセーターの上に軽いコートを羽織るだけで充分だった。もう、ウールのコートはおしまいだな。
「残念」という言葉は、「念」が「残る」と書く。
文字通り、心残りなほど、残念だった。しっくりこないというか、なんだかなあと思ったり、残念な時間だった。
時間は戻ってこないし、次の機会があるのかわからないし、なんだか残念だった。

けれど今日、徹夜のホタルイカ漁がこたえたのか、短い昼寝をして起きると、友人からメッセージが入っていた。彼女も短い昼寝をしたそうで、その時みた夢について書いてあった。
亡くなってしまった共通の友人の夢。
彼女の言葉を借りれば「足るを知る人」だった。
不思議だなあと思うのは、軽やかで、その風のような軽やかさは、亡くなったあとも変わらないけれど、風のようでありながら、大切なものを大事にしていて、彼のことが大切だった私たちの心のなかに、今でも生きている。
軽やかだけれど、確か。確かだけれど、目に見えるわけえはない、けれど大切。
 
夢について連絡をくれた彼女が、「ワインがどうとかって言っていたから、乾杯してね」と。
偶然にも、今日の仕事帰り、ワインを買ってきた。もう春だけれど、もう少しの間、重みのあるものを飲もうと、オーストラリアのシラー。ホントは、夢の友人が暮らしたNZのワインを買いたかったのだけれど、予算オーバーにてお隣の国。

私の昼寝の夢には出てきてくれなかったけれど、ワインはもたらしてくれた。
今朝までずっと、残念な気持ち、しっくりこない気持ちは残っていたけれど、ワインを飲みながら、夢の中の友人のことを思い出し、そうか、ものごとに執着してはいけないって軽やかな気持ちになれそうだ。
しっくり、ものごとを落ち着けるのは、無理やりではだめ。なにかのタイミングで、きっとそれは自分自身の心の持ちようで、しっくりと落ち着くのだ。

 

2017年3月24日 (金)

永日を期して

次の山の約束があるからって、また会えると思っていても、会えないこともあるんだと知った。
次があるとは限らなくて、誰にもなんの保証もない。

年間600本もの映画を観て、論評を書くって、すごい気力と体力と筆力だなあと思っていた。
だし巻き卵がお得意で、いつもご馳走になっていた。
 
東京は桜の開花宣言があったけれど、我が家の裏の桜並木は、まだ開かず。
春がやってきて、永日、日が伸びたけれど、永日を期してお別れ。
ご家族と学生時代からの友人と山の仲間みんなで、お見送り。
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2017年3月21日 (火)

フラット

先週のコト。
大学山岳部の1年ときの主将だった、尚之さんと有楽町の大衆居酒屋へ。
いまどきの居酒屋は外国人客が多く、2階はなんと禁煙になっていた。
「タラの卵煮」というのは、タラの身が卵とじになっているのかと思いオーダーしたところ、でっかいタラの卵の煮つけだった。大ぶりの小鉢にてんこ盛りになっていて、とてもふたりでは食べきれなかった。
 
さて、大学山岳部1年ときの主将というのは、大概の人にとって在籍中に受けた影響、世話になった度合が大きな存在のはずだ。私も例外ではない。
高校山岳部というのはかわいらしい場所だったけれど、大学に入ってしっかりと登山を始めようと考えたとき、山岳部に入るか社会人山岳会に入るか考えた。
キャンパスに友人がいた方がよいと思い、最初に山岳部の部室に行った。そこで、尚さんに会った。

彼が説明する、部活の様子や活動内容もさることながら、話しぶりからして、「この人は、平等に人を見てくれるんだ」って、直感的に思って、入部を決めた。
大学1年生、まだまだ親に守られた立場。ほんとうの人生の辛酸をなめるとか、男女の差別とか味わうのは、私の場合社会人になってからだった。人生のことなんて、まだまだ何もわからず、のんきで平和で、だから直感的といっても、それが何だったのか、得体は知れない。
けれど、この歳になるまで、何度もあの日々のことを振り返るが、その直感は正しかったと、いまも思っている。
 
いつのときも、いつの場も、誰に対してもフラットでいられるという人は、そう多くはないのかもしれない。けれど、それはとても重要なことで、その人となりを、私はいつも尊敬するし、それに救われることも多々ある。
 
親愛なるオーシャンアスリートでありライターの岡崎友子さん が書いていた「海で生きるために、私が選択してきたこと」 に、「つまり初めからみそっかすみたいなもの」とあった。
友子さんのフィールドである海も、私が活動する山も、自然環境は男女関係なくふりそそぐ。身体能力の差は確実にあるけれど、そのなかで、どうやって劣っている部分を克服していくか、できないことはできないと受け入れて、できないことを正しく認識して、工夫や努力を重ねていくか。
世界トップクラスのウィンドサーファーまでのぼりつめ、ウィンド、カイト、サーフィンと波にあった道具で毎日、海に出ている友子さんが、歩んできた道のりについても書いてあった。
そうだ、友子さんはいつ会っても、誰に対しても、フラットな人だと、思い出した。彼女がこんな歩みを経験しているからこそ、フラットでいるのかもしれない、と思った。
 
もう1本の記事。登山の雑誌『PEAKS』4月号のインタビュー連載「Because it is there」に取り上げられている山岳ガイドさん。昨年は夏と冬にご一緒する機会があったが、この彼も、どんな時もぶれずにフラットな人だった。
それまでも、何度か仕事で一緒になる機会があったけれど、それをよりはっきりと感じられる時間を共にできたことは、私にとって嬉しかった。
いったい、フラットな人柄というのはどうやって形成されるのだろうか。人間の資質なのかもしれないし、人生経験なのかもしれない。
フラットな人というのは、心から優しくて、そしてしなやかに強い人であり、周囲を温かくしてくれる。

2017年3月20日 (月)

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森田勝、長谷川恒男、加藤保男。
年齢順に並べてみた。長谷川恒男は、日本の登山界マーキングイヤー1947年生まれかあ。加藤保男は生きていれば、まだ68歳だ。
 
それぞれについて100字程度で書きたいのだけれど、夕方までかかっても書けず。
日本の登山史、登山家の達のことを、系統だててしっかりと理解できていない証拠か。
 
東北から白馬に直行しようと思ったけれど、原稿が気になり、膝も痛くて、東京ピットイン。

2017年3月16日 (木)

親父の一番長い日

今日は、親父の一番長い日。
今年で12歳になる、友人夫妻の息子が生まれた前夜になる。
この日になると、夫のケンちゃんが、かならずfacebookに、当時の日記をUPする。
ブログで残っているそうで、それは長文だ。
毎年リアルタイムで、このケンちゃんの日記を読めるわけではないけれど、読めるときは、私はかならず読んでいる。
そうそう、ミヤはこうやって産気づいて、病院に向かったんだった。そして、こうやって生まれてきたんだった。周囲はこんなに喜んだんだったよねって、読み進めながら毎年思い返す。
思わず読み入ってしまうところ、心に残る一節、涙ぐみそうになる文章、毎年毎年少しずつ変化していたり、する。自分の心を表すようであるし、いまさらオトナながらであるけれど、少しは成長できて、なにかを感じられるのかもしれない。

まさに、さだまさしの「親父の一番長い日」。

数年前、ネパールの山奥である日、この曲を聞いた。
天気が悪くて、なにもできない昼下がり、バッティのダイニングにメンバーがたちが集まり、思い思いに読書している時間だった。
私よりずっと若いのにさだまさしが好きってなに?という年齢の友人が、この曲を流し始めた。のちに、このことを、ほぼ同い年の共通の友人に話すと、「そうそう、あの年齢の人たち、さだまさしが好きって言うよね。オヤジくさいわ」ってオヤジとおばはんで話した。

何気なく聴いていたその曲が、ある一節にさしかかったとき、どばーって堰が切れたように、私は泣いてしまった。自分の経験と重なり、思い出すことがあったからであるけれど、自分で自分にびっくり。
友人のふたりはあっけにとられるように口を開けて、それから声を出して笑った。
私も笑い転げた。以来、私は涙もろいというレッテルが貼られ、安心して二人の前では涙できるようになった。
 
昔の曲を繰り返し聞くように、ケンちゃんの毎年のこの日のfacebookも、そのときどき、心に沁みて、いいものだ。
ケンちゃんの夫としての父としての覚悟をもった誠実さを、そして母になるミヤの逞しさを感じる文章。

2017年3月15日 (水)

舟生大悟さんの「親不知~西穂、厳冬期単独縦走記録」@『山と溪谷』4月号

『山と溪谷』4月号に「ひとりで向かった厳冬北アルプス」を書きました。
 
舟生大悟さんが、昨年12月24日から27日間かけて、親不知から西穂高岳(上高地下山)まで、単独(デポ・補給ナシ)で縦走した記録です。
たった2ページであり、大悟さんから聞いた話は半分も書ききれていない気分です、書き手としては。もう一度、書かせてもらいます。
おそらく前例のないこの登山のなにがすごいのか、なんとか書いたつもりですが、やっぱり本人が書く記録を(も)、読みたかったですね。
「文章を書くのは苦手だから、インタビューしてくれてホッとしています」と言ってくれたけれど、この先の彼の登山について、いつか大悟さんが書く文章が読みたいです。
これからのクライマーであり、これからの山岳ガイドであるから。
 
取材のとき、ご好意により相手の自宅を訪問することも多いです。
今回は、札幌の舟生邸を訪ねました。
妻と二人で暮らす、その暮らしぶりや彼らの人柄が伝わってきて、とってもいい時間でした。
ありがとうございました。
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2017年3月11日 (土)

人生折り返しの意味

ガイドに来てくださるお客様たちから、心温まるメッセージをもらった。
彼女の率直な言葉に、彼の深みのある言葉に、大いに励まされた。
色んなお客様に出会って、それぞれ皆さんに元気づけられたり、学ばせてもらったり、ガイドはお客様に育ててもらっているんだなと感じることが多い。

今回お便りくださったように、同世代のお客様というのは、一緒に成長していくような節もある。
知り合って5年程であるが、そのあいだに言葉にせずとも、それぞれに色んなことがあり、登山者として成長していくだけでなく、人間として成長していくこと、それを互いに見守ったり、感じあえるのは感謝したいことだ。

今回いただいたメッセージのなかに、「私たちの年代は、大人になってから丁度折り返し」という言葉があった。私が今年50歳になり、彼らも同じような年代である。「人生100年、ちょうど折り返し」というのではない。「大人になってから」の折り返しだという点が、ポイントなのだと。

子どもが、若者が、成長するのはある意味当然、自然のことだろう。しかし大人になってからも成長し続けられるのか、ほんとうはそこが問われているのではないだろうか。
これからも互いに成長して、素敵な大人になりましょう、というそのメッセージは、しみじみ心にしみいった。

3月11日を、ひとりで静かに迎えたのは、おそらく初めてだった。

 
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2017年3月 9日 (木)

行き先のわからないお惣菜

仕事が立て込んでいて、夕ご飯食べずにいたことを思い出し、小腹がすいた。
冷蔵庫にあったニンジンとちくわできんぴらを作ってみる。

さっとできてよいけれど、これはごはんに合うのか、つまみによいのか、はたまた冷めてもいけそうだから弁当用のおかずなのか、わからない。

そして、食べてみてわかる。ちくわは、もっと薄切りの方が馴染んだんだな。こういうところを、作る前から本能的に察して、さらっといっぺんで完成度の高いものを作れるかどうかが、センスの分かれ目。
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2017年3月 8日 (水)

おウチでたこ焼き

先日、友人の新宅に遊びに行った。
「昼ご飯、食べていってよ」と言って準備してくれたのが、たこ焼きだった。
関西では、家庭でよく作るというが、千葉生まれの千葉育ちの私は、食卓でたこ焼きプレートを囲むこと自体、初めてだった。
たこ焼きは、盆踊りの屋台で買うものだった。

生地を流しいれて、タコを一つずつ入れていくのは、4歳の男の子にもできる作業だった。
天かすや紅ショウガも入れる。
それから、1本ずつ配られた竹串で、少ししてからクルクルと始める。
見よう見まねでやってみたが、意外と難しくはない。
「まだ早い」と言われたり、「餅を何度もひっくり返しながら焼くように、何度も手を入れた方がいいの?」と聞くと、「いや、やりすぎはよくない」と教えてもらったり。
さすが神戸出身、たこ焼きは、わが食べ物、のような指導ぶりだった。
学校帰りの買い食いの対象であり、そして土曜の昼ご飯となると、家で食べるものだったそうだ。中学生が買い食いするたこ焼きは、8個で200円だったか、「きっとあれは、タコは入っていなかったよなあ」と回想。

クルクルは、難しくはないが、簡単でもない。時々ぐちゃぐちゃになる。
「鉄板がこなれてこないと、上手くいかないんだよ」と。
けれど、いちどぐちゃぐちゃになっても、次の段階でなんとかまとめることができる。
最後はうまく収まるのが、たこ焼きだということもよく分かった。

妻は関東出身でも、関西人の夫をもつと、異文化も身近なものになる。
私がぐちゃぐちゃにした後に、くるっと丸いたこ焼きができあがると、「いつも、最後はうまくまとまる」と。「最初は鉄板がこなれてこないから、上手く焼けないけれど、いつも最後になると、いちばんおいしくなる」と、彼女も話していた。
途中、ぐちゃぐちゃになっても、最後にはうまく収まる。まあるいクルっとした形になる。
これって、なかなか和やかでいいコトではないか!

2017年3月 1日 (水)

再会

2年程前にインタビューした方に、再会する機会があった。

2日間、山を一緒に登って滑って、心底、どんな場面でも山を楽しんでいる姿があって、なんだか、とってもいいなあと思った。
とってもリラックスした時間がもて、たくさん話をすることもできた。
彼女の親しい仕事仲間も一緒だったからかなあ。
2年前のインタビューのことを思い出してみた。3時間程度で済むところを、2日間時間をいただいた。それには私なりの理由もあった。前日にご本人に会って、山を緒に登ってもらい(この時もツアースキーだった)、翌日にインタビュー。
終始、硬い表情をしていた彼女を思い出すが、それはひょっとしたら、私が緊張させてしまっていたのかもしれないと思った。
2年経って、互いの色んな話ができた。仕事のこと、山のこと、それぞれの本音を話した。
いちどのインタビューでは、記事に表しきれなかったとしても、時を経て再会した時に、もっと深い話ができたり、深く交わることができるのは、やっぱり嬉しい。
一歩、相手に近づけた嬉しさ。それはもう取材とかではない。人と人の関係として近づけた嬉しさ。

別れ際、「札幌に来たら、まず電話。時間がなくても、お茶だけでもいいんだから、連絡してね」と言ってくれたのは、嬉しかった。
色んな土地に行くけれど、その先に知り合いはたくさんいるけれど、遠慮が入ってなかなか連絡はできない。というよりも、連絡をすることは、ほとんどない。
だから、相手から「まず電話」なんて言ってもらったら、それはもう、「ありがとうございます。じゃ、ホント遠慮せず、電話させてもらいますね」って、嬉しい。


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女性山岳スキーヤーたちが集って

Women's Skimo Projectのターニャレオ、ルドォを迎えて2.5日間。
可愛らしい人柄のターニャと、ジェントルってこういうことなんだっていう男性ふたりの3人組と過ごす時間は気持ちよく。

27日の旭岳は強風のなか登り、山頂は-20℃ほどの極寒。
冬の旭岳って、何度か訪れているけれど、天候がかみ合わないと登頂できないから、たぶんこれはたったの3回目の山頂。
北斜面に入ればなんとかなるかと滑り始めると、地元のみんなが「流氷が着岸したなかを滑っているみたいだ」とか、わかるようなわからないような喩えをするような、ぜつぼー的斜面を、私としては余裕もなくともかく失敗しないように降りていった。
ロープウェイ駅より下の標高では新鮮な雪がたくさん残ってたり……まったく変化にとんだ1日。こんな山岳環境を味わえる登山的スキー、私は好きだな。

ターニャ達との出会いが嬉しかったのと同じぐらい、このふたりと2日間を過ごせたことも仕合せ、幸せだった。
年齢は若かろうとも、私の遥か先を行く山の場を生業とする先輩たち。山岳ガイドの
泰子さん夕香さん
写真は、翌28日の旭川市の里山にて。この日は、ほかに4人の山岳スキー愛好家の女性たちも集まった。 コーディネートしてくれた
倫子さん、心からありがとうございます。
Women's Skimo Projectは、「より多くの女性が、アウトドアスポーツに関心をもち、活躍できる社会作りをしたい」というような目的で活動しているもの。昨晩、泰子さんと夕香さんをターニャがインタビューしているとき、ふたりが応えたある内容に、涙が出そうになりました。 詳細は、今後ターニャ達がwebで発信していきます。 私もまずは短文の記事を書き、その後も書いていきたいと思います。その際は、全行程を同行したカメラマン、二木さんの写真ですので、お楽しみに!

https://www.facebook.com/pasquedescollants/?pnref=story
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2017年2月21日 (火)

言葉

インタビューというのは、独特の行為だと思う。
週末のインタビューは、同世代がおふたり、一回り若い彼がおひとり。3人のクライマーだった。

同じ話題を繰り返し話すなかで、インタビュイーが先と違う言葉を使い始める。それが意図的に選んだ言葉なのか、無意識に変化、変容してきたのか、わからない。けれど、本人には確かめなかった。選びとっていく言葉が、心情の変化と一致するように感じたからだ。

またあるときは、もうひとりのインタビュイーが使った動詞に、耳が傾いた。私では、決してその名詞と動詞を結びつけないような組み合わせだったからだ。彼が口にした動詞を使って、翌日、その時の話を繰り返し聞いてみた。
そうしたら、「そうそう」とまた同じ話を、もう少し詳しく話してくれた。
なかなか思いつかない言葉だけれど、それがそのときの彼の心のうちと一致するのかもしれない。

いつ初めて会ったんだっけ? と聞いてみると、ひとりは「さあ、もう思い出せませんね」と。もうひとりは、「2002年のカトマンズですよ」と。はあ……そうだったか!忘れてもうた……。
時が流れ、皆さんにはそれぞれのことがあり、その中で登山を続けてきた姿に出会え、感慨深い2日間だった。
簡単に答えなんて出ない、けれど、ものごとを継続するなかで、その人の人となりが輝いてみえてくる。

こういう人たちに再会できると、自分もちゃんとしなきゃなと思うのだ。
私が彼らのことを、とっても魅力的だなあ、いい人たちのことを書かせてもらうんだなあと思うのと同じように、インタビュイーたちも、いいなあ、素敵だなあと思うようなインタビュアーからインタビューされたいだろうし。
とても、追いつきませんが、それでもずっと見続けたいと思う方々、見続けてきてよかったと思う方々をインタビューさせてもらえるのは、書き手の幸せ。


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2017年2月20日 (月)

賑やかな山

個人的には、静かな山が好きだけれど、たまにこんな賑やかな山もいいなあと思う。
週末は、雪のシーズンにいちばん多くの登山者が集まる山小屋のひとつをベースにインタビューの仕事。

こちらの山小屋に来ると、必ず10人の知り合いに会う。主に山岳ガイドの方々だ。
そんな彼らが、夕食後、自然とひとつのテーブルに集まってきた。
情報交換したり、近況を聞き合ったり。
楽しいひとときを過ごし、みなより一足早く部屋に戻ろうと席を立つと、ひとりの知人が席を立って、話しかけてくれた。昨夏、ヨーロッパでちょうど入れ違いになり会えなかったから、久しぶりにいろんな話ができたあとのことだった。
なにかまだ用事があったかなと思ったら、出てきた一言が、「コッチに引っ越しておいでよ。クライマー達はいるし、暮らしやすいよ」と、心配した言葉をかけてくれた。
20代の頃からの知り合いだけれど、深い付き合いをしたことがあるわけではないし、仕事をご一緒したのも数えるほどだ。けれど、若い頃からの知り合いといのは、なんとなくホッとするし、なんとなく互いに気がかりだったりする。どうしているかなって。
今回は、私にだけでなく、私たちの共通の友人のことも、「どうしている? 元気かなあ?」と気にかけていた。

人が苦しい思いをしているときに、それを察して、さっと温かい言葉をかけてくれるというのは、なんて心根の優しい人なんだろうと思う。そんな優しをもらったら、こんどは私も周囲の人たちに優しくしたいなって思う。
賑やかな山小屋の夜にいただいたプレゼント。

2017年2月15日 (水)

世界の頂で育んだ友情~田部井淳子とパンドゥ、エベレスト女性初登と第2登@『山と溪谷』3月号

『山と溪谷』3月号に「世界の頂で育んだ友情」という記事を書きました。
 
1975年5月16日に、田部井淳子さんがエベレストに女性初の登頂をしたその11日後、中国サイドから登ったパンドゥというチベット人女性がいました。
政治的にみても、ふたりがすぐに交流することはありませんでした。しかし何度か顔を合わせ、晩年は二人の間に確かな友情があったと、私は思います。
それは田部井さんの元来の好奇心、オープンマインドな人柄がきっかけを作り、パンドゥがそれに応えたのだと思います。
 
パンドゥの死去が2014年、生前にお会いする機会はありませんでした。
田部井さんには、度々パンドゥの話を聞いていましたが、インタビューは昨秋。振り返ると、最後に病室を訪問したときになります。
 
中国での3度の個人的面会の際、通訳を務めた須崎孝子さんには、この記事を作るにあたって、とてもお世話になりました。
現在は、貴州大学(中国貴州省貴陽市)で日本語教師をされている方です。
 
二人の友情、社会的背景、そこに表れる田部井さんの生き方については、いずれもっと大きな形でまとめたいと考えています。
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2017年2月14日 (火)

山の準備

仕事の合間、週末の山に向けて準備。
ひとりは、プレートを買って雪山用のアブミを作ると言っていた。
私は、アイゼンを履いていてもテープのアブミにそのまま乗ろうと考えていた。
けれど、ゴアのパンツはずいぶん汚れたためか、撥水性が落ちていたと前回を振り返る。これは洗濯しなければ。
この間のグローブがいまひとつだったので、夏にシャモニーでみんなを真似て買ったものを使おうと、油を塗りなおした。

山の準備って、なにかとある。前日だけじゃ、ぜったいに終わらないから、少しずつ。


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2017年2月10日 (金)

偲ぶ話

亡くなった方を偲ぶ話をすることが、続く。
ごく限られた方とすることもあれば、集まりのなかでひとりひとり語ることもある。後者のケースが何度かあったが、どうにも、私にはうまく話ができなかった。
故人を偲ぶこと、故人と自分の関わりあいのなかから思い出話をすることが、なぜかできない。
ご家族はもちろん、私よりもはるかに深く長くお付き合いされてきた方々が大勢いて、そんな皆さんのことを考えると、とても言いにくいのだけれど、いまだうまく、死別というものを消化しきれないのかもしれない。
彼女と出会って、一緒に過ごし、そして別れたことを、まとめて話すことなんてできない。そこにあるのは一つのカラーではなく、色んな色が混ざっていて、思いも複雑だ。

頼まれた追悼原稿は、ちゃんとまともに書いたと思うし、インタビューもちゃんと答えた。けれどこうやって話すとなると、まったく大人げないと恥ずかしくなるほど、話せない。
少人数で会って話していても、それは同じだ。
でも時々、ほんとうに思いを共有できる相手もいる。
そんなひとりが、先月、ある店に誘ってくれた。かの国の大使公邸で板さんをしていたというから、私も彼の料理を食べさせてもらったことは何度かあったんだなあと思う。
誘ってくれた彼女が、「田部井さんが亡くなって、周囲を見渡すと、私よりも年上の女性が見当たらないよ」と、寂しそうな声で、この業界のことを言う。それほど皆が、田部井さんをどこかで頼ってきたのかもしれないし、実際に私も、思い起こせる同性の先輩となると、彼女ぐらいしか頼れる相手はいなくなった。
それから数週間経って。
同じ店に、今度は私が別の女性をお誘いした。
貴陽市から一時帰国している日本語教師の彼女だ。
お別れ会の時、一目お会いして、そして互いになにも言葉にはならず、別れたので、ぜひゆっくりお話したかった。
目に涙をためながら、やっぱり色んな話をした。

そんな本当に一緒に偲べる方々と何度か会ううちに、なぜ私がいまだ別れを消化できないのか、気づいた。
それは生前、ちっとも田部井さんの期待に応えられなかったし、宿題ばかり残っているし、まだまだ教えてほしいことはたくさんあったし、言うべきだったお礼を、ちゃんと言えなかったからだ。ご一緒した年月が、ひとつひとつを積み重ねた時間というよりも、整理がつかないまま、いまはまだ大きな塊のようでしかない。

抱え込んだ大きな塊はひとつではないけれど、これをひとつひとつ解きほぐしていくしかないのだなあと考えた。

2017年2月 9日 (木)

恵方巻

節分の日の夕方、「恵方巻が食べたい。買ってきて」とスマホにメッセージが入った。
なんとなく、らしくないリクエストだなあと思いながらも、ちょうど街にいたので、デパ地下で2本買った。恵方巻売り場の前は、どこも長蛇の列になっていた。節分に食べるもの、吉なる方位である恵方を向いてかぶりつくものぐらいしか、私には知識がなく、コンビニにもたくさん売っているので、コンビニが流行らせたのかなあとさえ、思っていた。
 
夕べの食卓、iPhoneで「北北西」を調べ、そちらを向いてかぶりついた。
恵方巻の言われも作法もよくわらからない私は、恵方巻をかぶりつきながら、「これって、いっぺんに食べちゃうの?」と聞いた。食卓にはお味噌汁も、冷ややっこもあり、そちらも食べたいと思ったからだ。
するとプッと吹き出して、口をもごもごさせながら、くぐもった声で「食べ終わるまで、話しちゃいけないんだよ」と。
 
のちに、恵方巻を食べ終わってからゆっくり聞いた話であるが、大阪や神戸あたりでは、みんな寿司屋に行って、恵方巻を食べるんだと。さすが関西出身は、身近なものとして知っているな。
私が余計な一言を言ったために、笑いが止まらなくなったけれど、「でも、お喋りしながら食べる方が美味しいよね」と。 

人と囲む食卓は、やっぱり温かい。
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2017年2月 3日 (金)

バスの移動

「え!バスで行っているの?」と驚かれた。
クルマ持ってきていないから、ひとりで移動するときはバス。
友人と山や滑りに行くときは、クルマに乗せてもらうけれど、それ以外はバス。
たとえば、滝野にあるクロスカントリースキーのコースに行く場合、バスを2路線乗り継いで行けば、到着する。真駒内駅から滝野へ向かうバスには、私のようなクロカン愛好者たちが乗っている。クロカンの板は軽いから苦にはならない。だから、そんなに驚かれるとは、思っていなかった。
もっとも今年は、中国人旅行者が激増し、バスの座席に座れるコトが稀になってしまった点が、ちょっとやっかいだが。

雪国のバスは、天候や降雪量によって遅れる。それも計算して家を出たり、雪道を歩いたり、写真のようにバス停にあるシャベルを使ってバス停を掘り起こしたりするのも、雪国に慣れる一環だったりする、私の場合は。
もちろん、朝の雪かきも。

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2017年1月26日 (木)

調べものと座標軸

インタビューに向けて調べもの。
ある山域の登攀史を読みあさる。
けれど、ネットはもちろんのこと書物を探しても、すべての登攀を読むことはできない。書物に書き表わしていないものもあるからだ。報告書や遺稿集、文集などまで手を延ばすと、もう少し読める。けれど、これは行き当たりばったりではだめで、ある程度あたりをつけて探していかなければならない。

 

もっとほかの記録もあるだろうなあ、と思いながらもなかなか探せずにいるなか、今日あるクライマーに連絡を取ってみた。本人は自分のことをもうクライマーではないと言うだろうから、元クライマー。

メンバー3人の名前と核心、即答だった。
そんな記録があったのか。
帰宅後にもう一度連絡をくれて、40年ほど前のヤマケイの何月号に載っているか、教えてくれた。しかしそれはたった一ページしかないからと、ある遺稿集に詳細があるとも教えてくれた。

彼が30代の頃、同じようなことをやりたいと記録を読みこんでいたから、すぐに思い出したそうだ。
いくら書物を調べてもだめで、登山にコミットメントしてきた人は、自分の経験と思い入れをもって、登山の歴史を知っている。そして、そういった知識と経験があるがゆえに、彼らは登山について語る座標軸をもっている。

私は書き手だというのに、座標軸がまだまだ貧弱で、色んな人から色んなことを教えてもらい、自分の経験の上に少しずつ積み重ねていっているだけ。
やがて確固たる座標軸をもって、自分の価値観でものを見て、書けるようになりたい。


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2017年1月21日 (土)

「エキスパートに学ぶ危機管理実践術」@『山と溪谷』2月号

『山と溪谷』2月号・特集「単独行60の知恵」のなかで、「エキスパートに学ぶ危機管理実践術」に、短文を書きました。山岳気象予報士の猪熊隆之さんらの文章もあります。

当初の編集から依頼は、「単独行に適した装備」「単独行の際、装備について工夫する点」についてコメントがほしいということでした。既に出されていたほかの方々のコメントをいくつか挙げて、それらと重複しないような内容がほしいと。
しかし、いずれのコメントを聞いても、また編集部の意図を聞いても、私にはちっともピンときませんでした。もっというと、私が考えることとは大きくずれていました。
結局のところ、計画立案、行動中の判断で大きく安全のマージンを取るのだと思います(それ以前に、単独で行くかどうかの判断があると思うのですが……その部分は今回の原稿では割愛となりました)。

同じ特集の中で、廣田勇介さん(山岳ガイド・フォトグラファー、先日降りしきる雪のなか、白馬の山をガイドしているのにばったり会いました、頼もしかったです)が、「単独行のための個別のスキルというものは存在しない」との書き出しで、ではなにが単独行のスキルとなるのか、述べています。
厳冬のアラスカで単独登山を繰り返している栗秋正寿さんのエッセイにも、素晴らしいことが書かれていました。

よかったら、ぜひ手に取ってごらんください。


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2017年1月19日 (木)

言葉

朝日新聞の近藤幸夫記者が書いた「登山の魅力 語り続けた責任感  登山家 田部井淳子さん」という記事に感銘を受けた。
2017年1月14日夕刊、「惜別」というコーナーに掲載されたものだ。

その日、田部井淳子さんが呼びかけ人となって2009年に始めた20~40代女性向けの登山サークル「MJリンク」の新春登山があった。田部井さんの夫である政伸さんらも参加してくれ、雪のある丹沢を歩き、大山を参拝し、下山後は丹沢名物の豆腐屋さんで、みなで食事をした。政伸さんを囲んで和やかに話をし、そして最後は涙ながらも、みんなで田部井さんの思い出話をした。
その時、タベイ企画の吉田三菜子さんから、「今日の夕刊に田部井さんの追悼記事が載る」と案内があったので、帰り道にキオスクで買い求めたのだ。

けっして派手ではない。けれどこの記事のなにに心が惹かれたのかわからないまま、知人でもあり書き手として先輩でもある、近藤さんにメールをした。ほんとうは電話して話したいぐらいだったけれど夜遅い時間になってしまったので、メールにしたのだ。
するとすぐに、近藤さんから電話がかかってきた。
この業界では、弾丸トークで有名な近藤さんだ。翌日の登山の準備もしたく、深夜の電話ではいったい何時になってしまうのだろうと思ったけれど、とっても嬉しかった。
取材の話をしたり、田部井さんの思い出話をしたりした。
近藤さんは数年前から、デスクを退き長野支局、松本支局と渡り歩いている。
現場最優先の記者である立場を貫いている。これぞというときにきっちりと紙面をとって、記事を書く姿は、やっぱりこれまでに相当のことを積み重ねてきたのだなあと思わせる。

「惜別」の思いを書き表すだけでなく、近藤さん自身が持ちうる座標軸をもって、登山家・田部井淳子の人生を描き表したのだなあと、到底いまの私にはできない仕事だなあと、そんなことを言うこと自体、生意気ながらにも思った。

今回の記事のタイトルに、「責任感」という言葉がある。この言葉について近藤さんと話すなかで、やっとわかった。「責任感」というのは一般的な言葉であるが、田部井さんの人生を語るときにこの言葉を選び書き表すに至るまでに、相応の取材と熟考と執筆を重ねているのだ。たとえ一般的な言葉であっても、ひとつの言葉にたどり着くまでに、書き手が重ねたものが濃ければ濃いほど、その言葉は活きてくる。
しかしその言葉の意味や、重要性、価値に気づく人がどれだけいるだろうか。
私は、こうやって書き手がたどり着いた言葉は、その書き手のものであり、おいそれと、それに手を出せないと思っている。

ちょっと前、私が取材を繰り返すなかで思いつき、書いたある言葉があった。
ひとりのアルパインクライマーを称した言葉だ。成熟する域に達し、登り続けているアルパインクライマーだ。けれど、その言葉はいとも簡単に、広報で使われた。そういうのをみると、言葉を大切にしない、他者の仕事を大切にしない人もいることを、とても残念に悲しく思った。

書き手が苦心してたどり着いた言葉は、ほんとうに価値があると思うし、ひょっとしたらいとも簡単に使われた私の言葉には、まだまだ価値がなかったのかもしれないとも思った。
年が明けてから、2回も松本に行きながら、松本支局で働く近藤さんに連絡をしなかったことを、「なんだ、それ。来ているなら電話ぐらいしてよ」と、近藤さんは言った。彼の優しさだ。
そうだな、次の訪問のときはお会いして、一緒に田部井さんの話をたくさんしよう。


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2017年1月11日 (水)

写真に写っていたもの

スキーに来た場合、時間が許すようだったら何日か滞在するようにしている。そんな時の夜の過ごし方はいろいろ。
昨晩のように、地元に暮らす友人と一緒にご飯を食べることもあれば、宿の部屋などにこもって仕事をすることもある。
日中は滑って、夕方から机仕事というのは、理想。ただしくたびれて眠くなってしまうこともあるが。

今日、スキーから帰ってきて、お風呂で身体を温めて、いよいよ原稿を書こうとしたら、眠くなってきた。
原稿が進まず、記事に掲載する写真をぼんやりと眺めていると、パレードの主人公たちのすぐ後ろに、小さく写っている一人の男性に目がとまった。ひょっとして、ジャーナリストとして大先輩である彼ではないだろうか。12年前の、こんな記念すべき日に、カトマンズにいたのだろうか……。可能性は、ある。
と思い、連絡すると、「そうそう、通訳していたの。エリザベス・ホーリーの取材の通訳も担当したよ。だからなにか知りたいことがあったら、言って」と、すぐにメッセージが入った。

そうだったのか。
もっと早くに気づくべきだった。いまからインタビューしては、とても間に合わない。

取材って念には念を入れても、ちっとも追いついていないことってある。

2017年1月 9日 (月)

思い出深い島

思い出深い島、きっと一生心のなかにあるだろう島が、世界中にふたつある。
ひとつは、「Believe」という意味の名をもつ港がある島。もうひとつは、宮城県大島。
ふたつの島の共通点は、どちらもタンポポが咲いていたことと、それぞれ2回ずついったことがあり、どの訪問も、島の思い出と同じように大切にしたい人達といけたということだ。
 
宮城県大島に渡ったのは、30年ぶりだった。
大学2年生のGW、白神山地の縦走を終えたあと、手元にあったJRの「東北周遊フリー切符」で回れるところをと、弘前から盛岡に出て、花巻や遠野を旅して、そこから太平洋側に出た。三陸の海岸線を走る列車や船に乗りながら、南下。すべてフリー切符で乗れる乗り物だった。やがて、気仙沼に着き、そこからフェリーに乗って渡ったのが、大島だった。
港近くの路上で売っていたホタテを買って、船に乗り込んだ。
島にはキャンプ場があって、そこは一面タンポポが咲いていて、どうやってもタンポポの上にテントを張るしかなかった。ちょっとふわふわしていて、青い青い海が臨めた。
島の記憶は、それしかない。
そして、この旅のその先に記憶もなく、その後どんな経路を辿って千葉の家まで帰ったのか覚えていない。だから、この旅の最後の記憶は、黄色いタンポポの野原と青い海原だ。
 
今回大島に行くことになったのは、数年前にナムチェバザールのバッティで初めて会った女性が、住んでいるからだった。
正確に言うと、10年近く前、あることを通じて彼女の存在は知っていた。
いくら、3.11後のボランティアで通っていたとはいえ、縁もゆかりもないこの地に暮らしを移すというのは、逞しいなあ、勇敢だなあと思っていた。
私の好きな大島に住んでいることもあるし、また山を再開したいと話していたので、一緒に東北の山に登り、その後大島に寄せてもらおうという計画だった。
 
大地震と津波で甚大な被害を受けた沿岸漁業を営むお宅におじゃまして、牡蠣の耳釣りの手伝いをさせてもらったり、その友人Sさんにあちこち案内してもらったりして、時間はあっという間に過ぎた。
地元の人たちとの交わり方や話の端々に、この地でSさんがしっかりと根を下ろして生活していることを垣間見た。
そして、大島がとっても魅力的な島であることを、あらためて知った。
まるで、ノルウェーのオーレスンを連想させるような地形を見下ろすことができたり、亀山に上がるとあっちもこっちも海が眺められて、水平線まで見える。とても、平和的なところだった。
 
さらにSさんは、思い出のキャンプ場にまで連れて行ってくれた。
季節が違うので、タンポポは咲いていなかったし、設備が整備されたのか、記憶と一致しない点もある。けれど、きっと私達は、港からこのキャンプ場までの遠い道のりを、山道具が入った大きなザックを背負って歩いたんだと思う。長い上り坂だ。お金はなかったけれど、若さがあって、不便であることはちっともいとわなかったし、お金がなくても幸せだったし、それ以上に大切なものをもっていた。

そんな30年前のことを思い出して、そして新しい地で逞しく暮らす友人を見て、私も色んなことを、もっとまっさらにしようかと、そう思えた。
島を出るとき、フェリーの甲板から岸に目をやると、昼に牡蠣の作業でお世話になった家族たちが、大きく手を振ってくれていた。たった数時間の付き合いだったけれど、なんだか涙が出そうになった。
 
そういえば、ノルウェーを旅したとき、一足先に帰る私たちをじょっくんは港まで見送ってくれた。時間ギリギリでフィヨルドを渡るフェリーに乗り込んだあとは、フェリーの切符とバスの切符を購入したりとあたふたしていた。やがてフェリーが離岸すると、かなっぷが「ぜったいにじょっくんがいるはずだ」と言い出し、甲板に出た。
するとじょっくんは、笑っちゃうほど体を大きく揺らして、手を振っていた。
そんなことも、大島を離れるフェリーのなかで思い出した。

色んな大切なことを思い出したし、それは全部とても大切なことだけれど、これからの人生はその先にあるので、だからもっといろんなことをまっさらにしようと考えた。
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    現在、MJリンクのサポーターやテントむし山旅プロジェクトbyAdventureDivasのガイドなどで活動しておりますが、このほかに個人ガイドをご希望の方は、下記「メール送信」をクリックの上、お問い合わせください。内容など、ご相談の上、実施したいと思います。

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